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現在新聞は一部32ページ建てで一セット状態。
中央紙には(土)、(日)に特集ページの中入れ状態があるが、39年前の読売新聞は毎日この「中入れ」があった。つまり早朝販売店には本紙20数ページ建てと同じ部数の「中入れ」が配送車から降ろされる。そこからまず折り込みチラシを「中入れ」に挟み、それを更に本紙に挟むという二段階のセットを手作業で皆でやっていた。だから配達までに30分くらいの時間が必要だったが、幸いにも当時読売新聞は、断トツの地元・京都新聞、春・夏甲子園時グッと増える朝日新聞に次ぎ、毎日新聞と最下位争い。ジャイアンツの連覇中でも京都では部数が増えない。だから広告媒体価値弱く、折り込みチラシも毎日2〜3枚だったので、配達まではそう手間ではなかった。
この本町販売店のエリアは、北は四条通り・南座、東へ八坂神社前から南へ五条坂を超え、東端は清水寺まで、そして今熊野・京都女子大から塩小路。西は鴨川沿いまでと京都・東山の名所旧跡地域を12区に区分けして、一人2区域づつ配達していた。
と、ここまでは大志を抱いて京都に来た青年にとって悪くない環境であったが、数日後変な事に気づいた。毎朝販売店に降ろされる約1500部の新聞の内300〜400部はそのまま店の倉庫へ。
つまり「押し紙」だった。読売新聞本社販売局からは毎月1500部の請求が来るが、読者から集金出来るのは配達している1100〜1200部。それが嫌なら拡張して有料紙にせよ、というのが読売本社の弁。しかし誰が見ても不自然。
販売店の一日は、毎朝3時半ころ起床し、「中入れ」して配達スタートが4時頃、先述の占有率弱く、部数は少ないがエリアは広いので配達終了が7時頃、帰ってきて店の奥さんが作るご飯、味噌汁、一品付きの朝食でやっと人心地。満腹と疲労で皆そのまま寝起きの布団に潜り込み10時頃まで仮眠。だから新聞販売店は夜明け前の活況とはうって変わって10時頃まではシーンとしている。そして学生以外の専業員(大人)は集金、拡張と夕刊まで動き、午後3時半から夕刊配達。夕食後も昼間不在だった読者へ集金、拡張で9時頃には就寝。つまり1日中働いている。
その間、学生は夕刊配達時間まで「学生生活」を送ると読売新聞奨学制度パンフには書いてある。でも現実はそういかない。青年が市電で河原町五条から今出川新町まで通っていた同志社大学では、仮眠せず1講目に出ても睡魔との戦い。夕刊時間にかかる3講目も途中退席。とてもとても学生生活は無理に等しかった。更に昼間の空き時間には店主から集金、そして制度に無い拡張業務が事実上押し付けられ、「学生返上」までそう月日はかからなかった。
(3ページに続く)
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