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◆ひゅうまん京都

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編集長の毒吐録

☆2017/11/19更新☆

加藤周一が22年前の『朝日新聞』の「夕陽妄語」(1995年3月21日)で“アウシュヴィッツ解放50年”と題する文章を書き、その中で『ショア』に触れている。以下は、その全文。

一九八〇年前後、イスラエルの町の床屋が客の髪の手入れをしながら、質問に答えて、四十年ばかり前の経験を話す、――あるいはむしろ話そうと努力する。彼はそのときトゥレプリンカの収容所にいた。ナチ占領下のポーランドでトゥレプリンカは、アウシュヴィツとならんで大きなユダヤ人虐殺の機関である。

 「想(おも)い出したくない」と彼はいう。しかし貨車ではこばれて来たユダヤ人たち、その労働班と「ガス室」送りとのし分け、「ガス室」送りの男女を全裸にする更衣室、「管(くだ)」(ドイツ語でSchlauch)とよばれた両側の見えない細い道、その道の行き着く丘の上の「ガス室」、女たちが送られて来るとき彼自身を含めて床屋の経験のある労働班がそこで待っていた、という風に、途切れがちの話はつづく。女の髪は切って集める。集めた髪はドイツへ送ったのだというが、それを見たことはないから、よくは知らない。

 そうしてある日……そこで、床屋は言葉を切る。眼(め)に涙をうかべ、その顔は苦痛に歪(ゆが)む。ついに彼は客をその場において奥へひっこむ。しかし戻ってきて、また話をつづける。そうしてある日、同じ村の女たちがやって来た。顔を知っているので、みんなが彼にとりすがり、自分たちがどうなるのかを教えてくれと嘆願する。しかし残りの命の数時間しかない女たちの嘆願に答えることはできない。「ガス室」は最後の瞬間まで犠牲者にも秘密にされていたからであり、もし答えれば彼自身が射殺されたからである……。

 これはクロード・ランズマンの記録映画「ショア」(一九八五)のなかの一つの挿話である。映画は九時間の長篇(ちようへん)、年月をかけてランズマン自身がインタヴューした収容所生き残りの証人の証言を集める。証人の一部は収容所の管理や囚人の輸送などに直接係(かか)わったドイツ人でもある。彼らの証言は、しばしば、微に入り細を穿(うが)つ。組織的で、計画的な、大量殺人と、人間の尊厳を奪うあらゆる手段の動員。

 ソ連軍がアウシュヴィツを解放したのは、一九四五年一月、一九九五年はその五十年後になる。東京の日仏学院が「ショア」の日本版(日本語字幕)を今年公開したのは、偶然ではないだろう。私は十年まえに映画の一部をパリで見たことがある。今あらためて見て、さらに強い衝撃をうけた。証言の内容の解釈はしばらく措く。インタヴューの場面そのもの、証人の顔と言葉――映画のなかにはそれ以外のほとんど何ものもない――は、事実であり、その事実の奥行きの深さは、到底、手際よく作られた劇的映画の効果とはくらべものにもならない。
         *      *
 今パリの第四区、市庁舎とバスティーユ広場の間、地下鉄サン・ポール駅の周辺にユダヤ人の住む街がある。住人は必ずしもアインシュタインやロスチャイルドやシャガールではなくて、本屋の主人とか、小料理屋の持ち主とか、洋服屋とか、要するに「普通の」人々である。そのなかの二人の男に、たとえばこういう話がある。

 主人公の男に、娘があった。娘は一九五三年の七月に結婚し、その結婚の祝宴に、かねて親しくしていた隣人、もう一人の男が夏休みの旅に出かけて、出席しなかった。旅の行先は、トゥルーヴィールである。主人公は、隣人の欠席を怨み、出会う度に、その名前を呼ばず、「トゥルーヴィールさん」といった。ところがその隣人が何かわからぬ病で死んでしまう。男は怨みのもって行きどころを失うが、それでも怨みを忘れない。ある日、ヴォージュ広場を通りがかると、死んだはずの隣人がベンチにかけ、生きていたときと同じ服装で、生きていたときと同じイーディッシュの新聞を読んでいる。不思議だとは思うが、男は怖(おそ)れずに近寄る。

 「マックスか」。相手は「そうだ」と答える、「それにしてもトゥルーヴィールさんでなく、名まえをよんでくれたのは吉兆だ」。「ところでぜひ聞いてもらいたい重大なことがある」と男はいって、第一、なぜ七月十四日の後で夏休みの旅に出なかったのか、第二、たとえ七月十四日の前にトゥルーヴィールへ出発していても、その日にパリへ戻れたではないか、第三、せめて電報でも打てなかったのか、などはじめる。

 通りがかった知人には、ベンチの二人のうち一人しか見えない。主人公だけが独り言をいっているのだと思って、行き過ぎる。

 死んだ隣人マックスは、問いつめられて、ついに本音を吐く。「実をいえば、おれは昔から祝宴なるものが大きらいなのだ、ネクタイで首を締め、食べたくもないものを食べ、何もいうことのない相手と同じ食卓につく。おれは自分の結婚でも、結婚の祝宴には出たくないね。……」

 その言葉を誠実だと思った主人公は、もはや隣人を非難する気にもなれない。隣人は立ち上がり、そろそろ墓場へ帰ろうといって、静かに歩み去る。しかし彼の姿が見えなくなると、主人公のうちには再び猛烈な反感がよみがえる。「なぜなら相手は死んでいたからであり、死は正しくないからであり、彼自身は永久に一人の友人を失うだろうからである」

 この話はシリル・フレーシュマンの短篇小説集『新篇サン・ポール駅の出会い』(一九九四)のなかの一篇である。私はこの話、および同じようなサン・ポール駅周辺の、「普通の」ユダヤ人の、小さな社会の、日常生活の些事を語って、微妙な皮肉とヒューモアにみちた話を好む。フレーシュマンの前著『サン・ポール駅の出会い』(一九九二)や『舞踏会の余興』(一九八七)についても同じ。

 一方には、アウシュヴィツがあった、いや、今でもあると、イスラエルの若い作家デイヴィッド・グラスマンもいった。「ホロコースト」を語って、「彼らはあのときには(damals)というが、われわれユダヤ人はあすこでは(dort)というのだ」と。しかし他方には、サン・ポール駅の周辺がある。その間には、どういう関係があり得るだろうか。

 二十世紀の歴史的な意味を決定した一つの出来事はアウシュヴィツである。またヒロシマであり、南京である。そこには人間が人間を否定する行為の極限があった。しかしいかなる歴史的事件も破壊しつくさない日常生活の持続性というものがあり、そのなかにわずかな人間らしさの、愚かさと共にそれを超える精神の小さな輝く破片がある。パリのユダヤ人にとってはサン・ポール駅の周辺に、他の人々にとっては、おそらく地上のどこにでも。それが今日「希望」と名づけ得る唯一のものなのかもしれない。

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