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◆ひゅうまん京都

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編集長の毒吐録

☆2018/5/20更新☆

【「特別・私的」もう一つの明治維新150年】(≪❶江華島事件(カンファンドサコン)を引き起こす≫❷≪秩父事件と自由民権運動≫❸≪先駆性誇る「五日市憲法」≫❹≪琵琶湖疏水とアスペン銀山の水力発電≫❺≪京都美術館建設と市民≫)

母方の祖父・四方文吉は明治元年(1868)に京都府吉美郡吉美村(きみ。綾部市吉美)で生まれた。150年前のことだ。小学校中退後、夜学で英語を学び、その後医院の調剤生となり、大阪で歯科医の資格を取得(わが国123番目の歯科医という)。山口県などでの出張診療の後、島根県松江市に移り明治25年(1892)に四方歯科医院を開いた。文吉は『歯科養生法』(明治25年)、『保歯要決』(明治27・1894年)などを刊行したり、郷里の郡是製糸会社社長の波多野鶴吉を松江に招いて講演会を主催したりして、文化人として、また歯科関連団体の役員として活動した歯科医だった。

僕は1953年(昭和28)、次兄に連れられて京都から松江を訪れ、祖父を初めて見た。祖父88歳、僕8歳小学2年生のことであり、生涯1度だけの「交流」だった。

文吉は無教会派のクリスチャンであり、「四方叢書」を100冊弱出した。文吉は放浪生活を続けた義弟をキリスト教精神で救ってくれたという本間俊平を松江に迎いて講演会を開き、その講演も含んで『神の人』と題して「四方叢書」第2篇として出版した。

1940年(昭和15)には歯科医院を次男に譲り、次女(僕の母)が住んでいた京都に居を移し、出版事業にいそしんだ。しかし第二次世界大戦によって印刷用紙が配給になり、住んでいた家が建物疎開になったこともあって、戦争中に松江に帰った。文吉の京都の家が母の家とごく近くだったこともあって、母とは濃密な交流があった。それも影響したのだろう、文吉の戦争協力姿勢には馴染めなかった。そのことを、繰り返して僕に言った。

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