編集長の毒吐録
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☆2020/2/11更新☆

昨10日、近畿高等看護専門学校で、『「タテの関係」と「ヨコの関係」』と題して、29人の学生相手に、≪「タテの関係」と「ヨコの関係」≫と題する「医療論」の「講義」をしました。8000字を越えるレジュメを用意、聞きとり難い、僕の話に耳を貸してくれた学生に大感謝、以下はその「講義」の冒頭です。

僕が歩んだ74年はふたつに分けられる。障害をもって生きたこの14年と、そうではない、それまでの60年間だ。2006年8月12日、僕は脳幹梗塞で倒れ、生死の境をさまよった(そうだ)。以来、カラダに身体の障害が残った。障害者になって、変わったこともあったし,変わりのないこともある。
                   
僕は1945年(昭和20)8月18日、京都市上京区(当時)にある産院で生まれた・・いまでこそ、「憎まれっ子世にはばかる」状態ではあるが、生を受けた当時は「玉のような男の子誕生」で近在の人がこぞって喜んでくれた(そうだ)。以来60年余、僕は「非障害者」の道を歩んだ。

「非障害者」の僕は大学卒業後、京都の農業団体に勤め、東京の農業雑誌の編集者の後、京都生協に職を得、京都府生協連の役員になり、1993年、96年、2000年の3回、京都市長選挙に出て“市長浪人”となり、NPO法人WEBマガジン・福祉広場をつくった・・誕生日直前の8月12日から14年、僕は「障害者」として歩んだし、生きてきた。

この14年は、京都、岡山、大阪、京都の6病院で16カ月の入院生活を送った前半と在宅の現在につながる後半に分けられるだろう。

右半身がマヒをしていて車いすが手放せないこと、カニューレが喉にあって文字盤で意思を表わしていたこと(入院後3カ月間)、右耳が聞こえないこと、右目がドライアイ状態であること、嚥下障害で胃ろうをつくり、経腸栄養補給剤(商品名/ツインライン)を注入していること、言語障害があること、顔が歪んでいること、右手が不随意運動すること、そうした状態はこの13年半変わらない。

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