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☆2020/3/1更新☆
≪悼辞―前を歩いた12人 ❸総合雑誌の論考が政府を動かす≫ 京都盆地の西北、立命館大学の衣笠キャンパスの南側に等持院はある。足利尊氏を祀った寺として知られている。還俗前の作家・水上勉(みずがみつとむ、1919〜2004年)が僧(小僧)として過ごし、近くにあった花園中学に通ったところだ。水上が暮らしたのは、1932(昭和7)年の「満洲国」建国、5.15事件から、36(昭和11)年の2.26事件までの4年、13歳から17歳のことだった。
不破哲三夫妻の働きかけがあって、その水上勉さんから「京都市長に井上吉郎氏を推す」との文書が届けられた。1999年冬のことだった。その文書は達筆であり、文章は心情あふれるものだった。「文書」「文章」が「栄養」になり、人々を励ました(『同じ世代を生きて』に所収)。それは、原稿用紙に「京都市長選挙に井上吉郎氏を推すの文」のタイトルで書かれ、京都の「良さ」「らしさ」を称揚するもので、「京都らしい京都を後世に残せ」という僕らの訴えとも重なるものだった。著名な作家の心情溢れるこの訴えは、人びとの心に沁みいった。
1963年の『中央公論』に、「拝啓 池田総理大臣殿」が掲載された(61年に『雁の寺』で直木賞授賞)。次女直子が脊椎損傷で生誕、その年の補正予算に、重度心身障害者施策関連予算が計上された。水上勉は名高い人だった。選挙とは距離を置いている作家と思われていた彼の、”京都を守れ!”というメッセージは人々の心を動かし、運動する人に勇気を与えた。「危機」に立つ日々、一人ひとりの決断と働きかけが、「壁」をつき破り、「きな臭さ」を吹き飛ばす。等時院の方丈を見やりながら、水上勉の自筆文書を思いやった。
Smart Renewal History by The Room
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