編集長の毒吐録
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☆2021/2/28更新☆

五日市憲法と秩父事件 自由民権期から学ぶ【全6回のうち第2回】 2 五日市憲法はどういうものだったか?

「富国強兵」の途を急いでいた日本(この路線は、維新期も今も変わりません)は、「官」も「民」も「憲法政治」(立憲政治)を求めていました。しかしながら「目標」は同じですが、「中身」に違いがあります。「帝国日本」の途か、「国民日本」の途かという選択です。

1881年10月12日に「国会開設の勅諭」(90年に国会を開設するとの勅諭)を政府が出します。このことも契機になって、「私擬憲法」と呼ばれた多くの憲法草案が出ます。明治前期の50のうち「民権派」(自由民権勢力)のものは30であり、画期的でした。その中で、僕は「五日市憲法」(「日本帝国憲法」が正式名称)は、自由民権期の憲法構想の中でもひときわ輝き光るものと思ってきました。

1968年、新井勝紘(色川大吉ゼミの学生だった)によって、東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家土蔵から発見されたためこの名で呼ばれています。204ヶ条からなっています。これは、宮城県出身の千葉卓三郎が1881年に起草したものと言われているものです。千葉の草案は、五日市町の人々の集まり(勉強会=「五日市学術討論会」と「五日市学芸討論会」)から生み出されたものではないでしょうか。

明治政府が造った「大日本帝国憲法」と同じく強大な天皇大権を規定するなど(「国帝(天皇)」においては、嚶鳴社の私擬憲法の丸写しとの指摘もある)、「進んだ人権保障、遅れた統治機構」との評価もあります。そういう「限界」を抱えた「五日市憲法」ですが、自由民権運動の時代の大きな成果だと僕は思っています。ちなみに、1880年、沢辺正修らの天橋義塾からも、「大日本国憲法」が出されています。(「3 美智子皇后(当時)と「五日市憲法」」に続く)

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