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☆2019/5/15更新☆
<本土復帰47年の日に>6年前、車いすユーザーの僕は、3日の予定で、沖縄本島の各地に足を運んだ(東村、辺野古、コザ、首里城、北谷、読谷、嘉手納基地、対馬丸記念館、不屈館、嘉数(かかず)高地、普天間基地、糸満、平和の礎など)。
沖縄本島占領を、連合軍(米軍)の立場から言えば、日本本土への安定的な爆撃基地を得たことになる。戦後を睨めば、太平洋に基地を確保したことになる。だから、日本軍が「破壊」した飛行場などの軍事施設は、さらに広がって、そのまま米軍の施設と化した。いまも続く沖縄の苦難は「沖縄戦」とそれを準備する中でつくられた。
1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まった。読谷(よみたん)・北谷(ちゃたん)海岸である。「敵は本島に上陸を開始す。嘉手納正面2〜3個師団、湊川正面1個師団内外」と日本軍は報じている。沖縄守備軍の降伏調印の9月7日(嘉手納飛行場で行われた!)まで、住民もまきこんだ悲劇的戦争はおこなわれた。「本土決戦」「国体護持」のために、沖縄の人々のいのちと尊厳が踏みにじられた。現地の塔に立って凄惨と犠牲に心をはせ、連れ合いと二人、頭を垂れた。
沖縄の闘いは、瀬長亀次郎(1907年〜2001)抜きでは語れない。「民族3部作」(『民族の悲劇』『民族の怒り』『民族の未来』、いずれも新日本出版社)が書かれた1970年代は「本土復帰」の年代でもあった。「カメさんの背中に載って本土に帰ろう」はあまりにも有名な合言葉だった。
「瀬長一人が叫んだなら50b先まで聞こえる。ここに集まった人たちが声をそろえて叫べば、全那覇市民まで聞こえる。沖縄の90万人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を越えてワシントン政府を動かすことができる」とは彼の名言。アメリカ軍基地を県内に維持したままの「核抜き・本土並み」の返還だった(1972年5月15日)。
Smart Renewal History by The Room
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