編集長の毒吐録
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☆2019/7/25更新☆

京都市内の北大路堀川下る(碁盤の目に区切られた京都盆地では、南行することを下がると言い、北行を上がると呼ぶ)西の島津製作所に隣接した場所に、墓所の入口があります。そこには、左側に「小野篁卿墓」と書かれた碑があり、右側には「紫式部墓所」と書かれた碑があります。2人のお墓の入口です。ここを右折すると、2人の墓石があります。

高等学校に通う途中にあったものですから、一度は足を踏みいれました。社会人になってからも何度か訪れたことがあります。

小野篁(おののたかむら、9世紀の人)には、百人一首に<わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟>という歌があり、紫式部(10世紀から11世紀の人)に、<めぐり逢ひて 見しや それとも分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影>があります。

紫式部のお墓とされるものは小野篁のお墓とされるものの西隣りにあり、この場所は晩年の紫式部が住んだといわれるお寺(大徳寺。僕の高等学校の東隣)の南にあたります。この地に紫式部の墓が存在するという言い伝えは、14世紀中頃の源氏物語の注釈書『河海抄』に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と記されているそうです。

小野篁は小野妹子の子孫で、小野道風や小野小町の祖父とされる人物です。昼間は内裏の役人ですが、夜は井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで補佐役を務めていたという伝説で有名です。紫式部の「源氏物語」は貴族社会の恋愛を中心とした物語であり、愛欲を書いた式部は、多くの人々を惑わせたとして、死後は地獄行きになったといわれています。

「源氏物語」の愛読者であったという小野篁のお墓を紫式部の墓のそれの隣に移動させ、彼女を救って欲しいと祈りを捧げるようになったと言います。なぜ篁なのかといえば、彼には生前から「あの世とこの世を行き来していた」という伝説があったからだと言います。

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