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☆2019/8/18更新☆
<1945年から74回目の8月18日((僕の誕生日)に寄せて> 僕が歩んだ74年はふたつに分けられるだろう。障害をもって生きた60歳代、70歳代の14年間と、そうではない、それまでの60年間だ。2006年8月12日、僕は脳幹梗塞で倒れ、生死の境をさまよった(そうだ)。以来、カラダに障害が残った。障害者になって、変わったこともあったし、変わりのないこともある。
僕は1945年(昭和20)8月18日、京都市上京区(当時)にある産院で生まれた。姉14歳、長兄12歳、次兄11歳、父43歳、母38歳が家族だった。1943年、44年の「京都五山の送り火」が燈火管制(根拠になった法律は防空法)を理由に中止になるなど、「1億総動員」体制の下、戦争が「銃後」の庶民生活を直撃した。女学校の教員だった父は、生徒を引き連れて軍需工場に出向いていた。
「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言(ポツダム宣言/井上注)ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」との「終戦の詔勅」をラジオで聞いて、母は産院に入った(自宅と産院は5分)。長じてから、京都盆地が原爆攻撃の目標地であったことを知って、自分の運命の不思議さに驚いた。
いまでこそ、「憎まれっ子世にはばかる」状態ではあるが、生を受けた当時は「玉のような男の子誕生」で近在の人がこぞって喜んでくれた(そうだ)。「敗戦」の報に打ちひしがれていた人々にとって、僕の誕生は「希望」だったのだろう。以来60年余、僕は「非障害者」の道を歩んだ。
Smart Renewal History by The Room
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