編集長の毒吐録
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☆2019/9/3更新☆

<74年前のオマールさんの死を悼んで> 【冊子『もう一つの明治維新150年』(井上吉郎、ウインかもがわ)から】 

マレー人留学生の被爆死 オマールさんは、1945年8月6日広島で被爆、東京へ行くべしで乗車した国鉄車中で具合が悪くなり、8月27日京都で下車、9月3日京大病院で息を引き取った。オマールさんは、京大病院にとって最初の被爆患者であったし、治療法も未確立だった。

市営墓地の南禅寺に葬られたオマールさんは、週刊誌の報道もあって、61年の命日以降、左京区園光寺の墓地に移された。2014年、オマールさんのお墓にお参りした。マレーの青年がなぜ被爆したのか、そのカギは南方特別留学生制度にあった。

南方特別留学生制度は43年2月、軍部、大東亜省などで協議された南方特別留学生育成事業という政令で制定された。「我国ニ留学セシメ、・・我学芸及ビ実務ヲ習得セシムルト共ニ我国民性ノ真髄ニ触レシメ、以テ帰国後ハ原住民ヲ率ヒ、大東亜共栄圏建設ニ協力邁進スベキ人材ヲ育成スル」と事業目的を謳っている。43、44の両年、フィリピン、ビルマ、ジャワ、マレ−などからあわせて200人ほどが日本に来ている。「大東亜の人質」だった。

オマールさんは43年来日、44年には広島文理科大学に属している。残されている写真を見ると、目鼻立ちがはっきりした学徒だったことがわかる。被爆時、広島の南方特別留学生は9人、オマールさんも一人だった。帝國日本が進めたアジア・太平洋戦争は、「大東亜共栄圏建設」を目的にしていた。

入院したオマールさん(1926〜45年)の担当は濱島義博さん(1923〜2013年。京大医学部教授、京都女子大学長)だった。原爆医療が未確立の中で、濱島医師ができたのは輸血、血液型が一緒の濱島医師は、自分の血液をオマールさんに輸血し続けた。オマールさんは、濱島さんに「兄弟になった」と言ったという。義父は浜島さんと旧制中学生以来の親友だった。

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