僕たちは下鴨本通りの横断歩道を西に向かって渡り、下鴨本通りの西側の舗道を南に下がっていった。
間もなくして、小さな路地を右に曲がった。
そのまま、下鴨通りを下がっていって、葵橋を渡り、河原町今出川を西に行けば良かったのだが、二人とも何となく本通りの裏の道を歩いてみたかった。
「ユウちゃん、この道知っている?」
「うん、何度か歩いたことがある」
僕たちは、その小さな路地を歩いていった。
しばらく行くと、南北に走るちょっと広い道がある。葵橋西詰めから北大路まで延びている道だ。僕はこの道をタクシーで何度か通っていたし、下鴨の一本松に友人が住んでいた関係で少し土地勘があった。その周辺には所々に生活の匂いを感じさせる古いクリーニング屋とか理容店などがあった。その道を葵橋に向かった僕たちは歩っていった。どこをどう歩いたか確かな記憶はない。下がったり、右に曲がったりしていたら出雲橋の所に出た。
出雲橋を渡り、賀茂街道を南へ下がっていった。行き交う車以外は、僕たちの姿しかなかった。歩きながら、僕たちは何も話さなかったが、樋上通子は時間を充分に楽しんでいる様子が横顔から伺えた。
僕は賀茂街道から見える賀茂川の北側に展開する風景が好きであった。時々、僕は歩きながら振り返ったりして、川と木々と道、そして連なる山々、点在する民家のシルエット、それらの風景を楽しんだ。
そのまま、僕たちは賀茂街道の入り口まで歩き続けた。随分歩いたことになる。
「樋上さん、大丈夫?結構歩いたけど」
「うん、平気。どうってことないわ」
樋上通子はしらっとした表情で答えた。
僕も、なんの言葉を挟むこともなく笑顔を返した。
葵橋の東詰、賀茂街道の入り口の近くにレゲェを鳴らしていて、結構人に知られた店がある。その店の前を通り、僕たちは寺町通りに向かって進んでいった。
「樋上さん、今、通った角あたりの店、知ってる?」
「え? なんの店なの。知らないけど」
「うん。レゲェをかけている飲み屋。結構有名なんだ」
「えー、レゲェね。わたし、あんまり聴かないけど、ユウちゃん好きなの?」
「うん、僕は音楽が好きだから、クラシック音楽以外は何でも聴くけど、やっぱりジャズ」
「へー、ユウちゃんジャズが好きなんだ。ふーん。そう言えばこの前、ディルームで聴いていたわよね。誰がいちばん好きなの?」
「僕の周りの人なんかはマイルスとかコルトレーンとか、ソニー・ロリンズとか言うけど、僕はサッチモ。ルイ・アームストロングがいちばんだね」
「あー、知ってる。眼のおっきい黒人の人。歌とトランペットの人だわよね。彼のセントルイス・ブルースって哀愁があって、なんとも言えない味があるよね。でも、わたしはロックの方、70年代のものが好き。イーグルスとか、キャロル・キングとか、ローリング・ストーン、そうね、それからクリームとか。うーん、でもいちばんはジャニス・ジョップリンかな。なんかバラバラ……」
そう言いながら、樋上通子は恥ずかしそうに、世界が変わってしまうかのような笑顔を見せた。
音楽は時として、普通の言葉よりもものごとを雄弁に語ったりするものだ。それは花とか、場所とか、食べ物とか、特定の店とかも同じ作用をもたらす。
満開の季節を終えて、散花し、乱舞する桜が好きと言えば、4月の憂いを少し含んだ風と狂おしく舞う桜の姿に感情移入する人の感性が即座に想像出来てしまう。
その人は激しい人だ。
野に健気に咲くれんげ草が好きと言えば、地味のなかにも内に潤いのある華を隠して、粘り強い感覚の人を思い浮かべてしまう。
ロックが好きで、しかもジャニス・ジョップリンが好きだという樋上通子の激しさ、ものごとに抗う強さのようなものを想った。
そうこうしている内に、寺町通りを過ぎて相国寺の前に着いた。
僕たちは相国寺の境内を横切り、西門を出た。西門を出ると、マンションが二つ並んで建っている。その店は烏丸通りに近いマンションの一階にあった。
斜めには同志社大学の会館が見えた。
樋上通子が言ったように、烏丸上立売の交差点を東に入った場所にその店はあった。
90センチぐらいのドアーがあり、そのドアーは深い緑のペンキが塗られ、窓は心を吸い込んでしまいそうな赤であった。
僕たちはドアーを押し店に入った。
入るとすぐにケーキのショーケースが置いてあった。店はカウンターに4つの椅子。中央に楕円形の高級そうな茶色のテーブル。4人がけのテーブルが2つ。二人用のテーブルが2つというこじんまりとした店であった。壁はオフホワイトで、写真で見るスペインの田舎にあるような風合いを醸し出していた。
天井からは波打っているエンジの布が装飾されていて、白と黒のピンライトが仕込んであった。
壁には大小5つのあっさりとした水彩画が飾ってあった。
店の名前は「オフホワイト」。
僕たちは、一番奥の二人用のテーブルに座った。
カウンターの中の天井近くにセットされた小さなスピーカーからは小気味の良いボサノバが流れていた。
細いストレートの茶のパンツを履き、グレーの細いボーダーのシャツを着て、黒いエプロンをしている若いスタッフが注文を取りに来た。
「僕はコーヒー」
「エスプレッソになりますが、それでよろしいですか?」
「ええ、結構です」
「樋上さんは何にする?」
彼女はメニューブックを見て、考えていた。
「わたしは、チョコロテーノ。それから、マンゴーココナッツ。ユウちゃんもケーキ食べたら?」
「うん。そうしよう。じゃあ、ショーケースを見てくるから」
僕は席を立って、入り口のドアーの近くにあったショーケースを見て「ニューヨークチーズケーキ」とスタッフに言った。
「はい。わかりました」とスタッフは言い、僕たちが注文したものを復唱してから離れた。
さあ、これから樋上通子との闘いが始まる。
僕は心を真っ新にして、向かいに座っている彼女を見た。
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