川の向こう側へ
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☆7/23更新☆
第36回

 「ユウちゃん、のどが渇いたから何かコンビニで買おうか」

出町のバス停から北へ進んで行こうとする僕の後ろから樋上通子が言った。

「そうしようか」僕はそんなに飲み物が欲しいとは思わなかったが、彼女に妥協した形で肯いた。

僕は向きを変え歩き始めた。

出町柳の界隈は、朝夕は学生、通勤客などで結構込み合うものだが、昼過ぎのため人通りは少なかった。

 バス停の近くの舗道の東側にはお寺が2カ所連立している。

その内の一つ、萩の寺常林寺の入り口の左側にはいつもハッとさせられる言葉が書いてある「掲示板」があった。

それは達筆というわけではないが、そこの住職が書いていると思われる枯れた雰囲気で個性的な墨で書かれていて、僕はそれを見るのが以前から好きであった。

その日も、薄いうぐいす色に小さな点とまばらな細い線があしらってある紙に、

    勇気こそ

    地の塩なれや

    梅真白(草田男)

と書いてあった。


黒い墨が紙に格好良くにじみ、得も言えぬ落ち着いた世界を創り上げていた。

僕たち二人は、その額に入れられたその句をしばらく見ていた。

「ユウちゃん、これってどんな意味? なんかいい感じだけど」

「うん。地の塩というのは、聖書の確かマタイ伝の一節に書かれている言葉で、世の中の不正や腐敗を防ぐ者のことで、それには勇気が必要だと言っているんじゃあないかな。最後の梅真白がこの句を引き立てているね。作者は純白の梅を見て、感慨深く勇気を持つ事の意味と大切さを感じて詠んだんだと思うよ。健気に咲いている梅が映えている様がきれいだね」

「へえ、そうなんだ。勇気ねぇ……勇気か、それって私に一番不足しているものね。わたしって勇気なんてぜんぜんないもの……なんかすべてを失ってから惰性で生きている感じだから」

「いや、作者だって真っ白の梅を見て、それが足りない自分を戒めているんだと思う。誰だって勇気なんてそんなに簡単に持てるものじゃあないからね」

樋上通子は、僕のつぶやくような言葉を聞いてから更に一歩「掲示板」の方に近づき、黙ったまま腕を組み、その字を食い入るように見つめ直していた。

背中が淋しそうであった。

「さあ、行こうか」僕は彼女の背中から言った。

「うん」

彼女は僕の方に振り向きながら、花火がはじけたような笑みとドギマギする挑発的な視線を送ってきた。

僕は思わず視線をそらし、ちょっとの間、空中に視線を遊ばせてからもう一度彼女の目を見た。

何かが終わり、何かが始まるような予感がこころをよぎった。でも、一体何が終わり、何が始まるというのだ、僕は努めて冷静な感情を取り戻そうとした。

コンビニは川端通りと今出川通りの交差点の角地にあった。

彼女はサンドイッチと缶ジュースを買い、僕はウーロン茶を買った。すぐに店を出て、交差点を渡り、川端通りの鴨川に面した西側の舗道を北に向かって歩いていった。

 僕たちは、北向きのバスが走っているバス停の横を過ぎ、高野川に架けられている橋のたもとで立ち止まった。

 「ユウちゃん、この橋の名前知っている?」

「うん、河合橋」

「う〜ん、河合橋ね、でもどうしてそういう名前なんだろうね。ねえ、ユウちゃん」

「さあ、由来は知らないけど、高野川と賀茂川が交叉している場所だから、川と川が会う所に架けられた橋という意味で、河合橋って言うんだと思う」

「へぇー、ユウちゃん想像力たくましいね」

僕たちはその河合橋を渡っていった。

橋から北の方を見ると、蛇行している川の端々に家が建ち並び、時々高いビルが見え隠れしていたが、川端通りには花を落としてしまった桜並木が点描された絵のよう流れていて美しかった。そのずっと、ずっと奥の方には先ほど、岩倉中通り近くの公園で見た北山の連峰がくっきりとした様で見えたし、比叡山の姿も、その公園で見たときよりも違った趣きをかもし出していて、格別の風情であった。

振り返ると、二つの川が合流した鴨川がどこまでも、どこまでも一直線に流れていて、地の果てまで続いているかのようであった。ずっと遠くの橋の欄干の間から車が東西に行き交ってるのが見え、なにか古い映画でも見ているようであった。

河川敷では、犬がその浅瀬と土手の周りを自分の領地であるかのように、自由を満喫して思い切り走り回っていた。

河合橋を渡りきった北西のたもとにはひときわ、枝振りが美しく目立つ柳の木が風にそよいでいた。

樋上通子は、何かを確かめるようにその柳の木を触っていた。

僕は、彼女に話しかけることもなく、河原町通りの方を見ていた。

出町商店街のアーケードの入り口の左側には、その店の豆餅を買い求めて、少なくない人達が並んでいた。

その店の黒い屋根の煙突からは、大豆を煮ているところなのであろうか、白い煙が灰色の空にシュプールの曲線を描いていた。その手前には、エメラルドグリーンの屋根の変わった様相のビルが建っていた。

それらの光景は、何層にも重ねられ雪でも降らせるのではないかと思われる雲の微妙なグラデーションとあいまって僕が病院に入院していることさえ忘れさせ、自由にどこへでも行けるような空想を与えてくれるようであった。

「ねえ、ユウちゃん何を考えているの?」

僕の意識は、樋上通子の言葉で現実に戻された。

「いや、なにも……」

「さあ行こうか」と彼女に声をかけ、僕は糺の森の方へ向かって歩き出した。

下鴨神社の鳥居が立っている所に向かう道は誰一人として歩いていなかった。

二叉路の右側には、そのあたりの雰囲気にマッチしたギャラリーがあった。

「あ、画廊だ」と樋上通子は小さな声を上げ、ギャラリーのショウウインドウに近づいて行った。

中国の青磁器の展示会をやっているようであったが、僕はあまり興味が湧かなかったので、「さあ、急ごう」と彼女の中へ入ろうとする行動をさえぎった。

残念そうな表情を浮かべ、「うん」と彼女は肯いた。

 僕たちは鳥居をくぐり、表参道の石も砂もなく、頑なにも固い土の上を歩いていった。糺の森の東の方には小川が流れている。

僕たちの固い土の参道を歩く小さな足音がその小川の透き通ったせせらぎに共鳴していた。

「この川って、名前あるのかしら?」

「うん、瀬見の小川って言うんだよ」

「セミの小川? え? あの夏に鳴く蝉?」

「いや、そうじゃあなくて、瀬戸の瀬に見学の見と書いて瀬見」

「ああ、わかった。でも、どんな意味かしら?」

「うん、僕も調べたことがないし、知らない」

 僕たちは、表参道を歩き、糺の森の木々に目をやりながらとりとめのない話をした。

「あそこのベンチでちょっと休もうか?」

表参道の東側に、その「瀬見の小川」に降りて行けるように整地され、一寸した広場が造られていた。その「広場」に石のベンチが二つ並べて設置され、静かに流れていく小川を眺めながら休めるようになっていた。

 僕らはそのベンチに腰掛けた。

浅く、砂地が見える小川の両岸を笹が被い、絶妙な雰囲気を放っていた。

「ねえ、さっきの勇気のことだけど、私の場合、頑張っても頑張っても、その頑張りが足元からさらわれていって、なんか辛いことばっかりで……その辛さに立ち向かっていく勇気なんてもう、持てそうにもないし……」

樋上純子は、茂る木々の向こう側に展がるかすれたようなブルーが点在している灰色の厚い雲の群居の方に眼を配りながら言った。

「喫茶店に入ったから詳しく話すけど、私の人生って最低……」

僕は、その言葉に対して何んの反応もあえてしなかった。ただ、聞いているだけのほうが彼女にとって、きっと楽であろうと思ったから。

 彼女もそれ以上なにも言わなかった。僕たちは黙ったまま、小川を中心とした周りの風景をただ眺めていた。風と笹と小川のせせらぎが演出している音楽を楽しんだ。人の声も、車の排気音なども何も聞こえず、時々鳥達がその音楽に加わるだけであった。なにか、僕は異空間に迷い込んだような錯覚を味わっていた。この時間がずっと永久に続けばいいのになどと思った。


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■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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