川の向こう側へ
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☆11/1更新☆
第1回
 深青色に澄み切った空が、突然気分でも害したように暗くなり、やがて強い意志を持つ5月の雨が東の方から降り出し、激しい音とともに僕の部屋の窓を強く圧した。そんなとき、彼女は思い悩んでいたことを一気に振り切り、重大な決心でもしたかのような趣きで眼の当たりにかかっていたウエーブ気味の前髪を左の手でかき上げ、僕を睨むようにして口を開いた。

「ねえ、幸せって、なに?どんなものなの」

 彼女の言葉はいつものように、順序の法則を無視した唐突なもので、どんな事に対するものかも判断が付きかねたが、僕は、彼女の問いを拒む正当な理由など思いつかなかった。僕は彼女のほくろのある挑発的な口元辺りを何気なしに眼で遊びながら、沈黙のまま半分に減ったコーヒーカップに手をかけ、そんなこと説明出来るはずがないという困惑の表情をしながらコーヒーを一気に飲んだ。そして、タバコに火をつけ、一口吸ってから、彼女への回答にはならないことをいやと言うほど自覚しながら、苦し紛れに言った。

「人を好きになったり、様々の事に感動したり、そういう、心の中で生きていて良かったという思いが湧いてくる様な体験をいっぱいいっぱいする事じゃないかなぁ……そうすれば、生きていることに充実感があるし、明日もきっと何かがあると思ったりして、生きるはりがでてくるし……」

「じゃあ、あなたは今しあわせ?」と、彼女は追求する手を休めない、犯人を追いつめる捜査官のような感じで僕を追いかけてきた。

 彼女は、大学で経済学を専攻して、卒論は「現代の経済危機を克服する政策についての考察」というテーマで書いたらしい。その「考察」の出来が指導教授の眼にとまり、大学院への進学をしきりに進められていたが、それを断り、一昨年の夏、大学の生活とは何の関係もない埋蔵文化財の研究所に就職していた。今年で24才になる。名前は純子。僕と彼女の関係は、一応、恋人関係のようなものであろうか。恋人と言わずに恋人関係のようなものといったのは明確な理由があるが,上手く説明できない。彼女は子どもの頃から、勉強ができ、特に数学が他の誰よりも良く出来たらしいということを、彼女の幼友達だという女性から聞いて僕は知っていた。大学では、哲学研究会に属し、論理学を勉強したと僕に言っていたことを、彼女の女優のように整った風貌から想像しにくいので余計、鮮烈に、僕は記憶している。この彼女の数学と論理学のために、僕はずいぶん悩まなければならない生活を送っていた。会話が形而上学的というか、哲学的というか、適当な言葉が発見できないが、そういう頭が痛くなるような難しい傾向性のために、結構、会話の時、ボクサーがガードを固めるように構えなければならない必要性があったからである。そのボディーブローのような会話が、僕をいつものように襲ってきたのである。

「町の美しさや雨の芸術性などを君と感じていたいし、日常の空間から離れて、望むなら君と素敵な生活も過ごすことも出来る。君と二人で、希望に満ちた物語を作ることだって出来てしまう。そんな可能性を手にしている限り、僕は生きている実感を感じることが出来るよ。そういうのが大切じゃない、明日に希望を託すような……」

と、わざと思いきり背伸びして、彼女の喜びそうな表現で質問に答えた。

「ふーん、あなたの幸せへのキップは私が持っていると言うわけ?あなた自身の手で創る幸せのようなものってないの。人の意志で左右されてしまうものなの。私がそのキップを破いてしまったらどうなるわけ?そんなんが幸せっていえるの……」

 人間の幸福論について、僕が格別に高等な理論を持っていたわけではないし、集中的に考えた経験もあまりなかった。そして、彼女の言うとおり、僕の行動は、概して、何事につけて人の出方によって左右される傾向性は確かにあった。僕は子どもの頃から人を議論によって説得することが苦手であった。しっかりとした考えを持っていたが、それを表明したり、人と議論することは得意としていなかった。言うなれば、議論など生きる上での価値として認めていなかったというのが適切な表現ではないだろうか。

「じゃあ、君はどう考えているわけ?」その質問は、彼女に答えてもらいたいわけではなく、彼女の追求の手を別のところに持っていきたかっただけである。彼女の美しい眼から追求型のニュアンスが消え、一瞬のうちに微笑みが現れ、僕が知っている一番好きな表情になった。

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■筆者紹介

シマダ ジュン:

 同志社大学英文科卒。90年詩集「ルナーティクな気分に囚われて」(文理閣発行)出版。93年写真・詩雑誌「KUZU」創刊。98年写真展「岩倉の心的風景」を開催。その他、映画・音楽関係の企画プロデュース活動を不定期に展開。94年、俳句で山頭火賞の一編に選ばれる。
 
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