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「労働組合」「損害賠償」「非公然活動」…など生まれて初めて聞く言葉ばかり。
「組合」は、九州の田舎でも国鉄や、教職員が「安保反対」などと言っていたので「自分勝手なことばかりする『赤』」の人」というイメージがこびりついていた。彼らはしょっちゅう青年を訪ねてきた。実はもう一つの新聞配達グループもひっきりなしに来ていた。
後からわかったが、劣悪の象徴のような読売本町店のメンバーを、どちらのグループが獲得するかは、二つのグループの組織をかけた争奪戦だったらしい。社会矛盾を説くのは同じだが、どうも前者グループの方が「人情味あり」だったので、付き合いを始めた。
今思うと、この選択も人生の大きなターニングポイントだったようだ。
それが、全国で初めての学生中心の新聞配達員の労働組合結成・公然化の大きな転機だったことも彼らの言から知った。そして3回生になった青年はその年・73年9月、いつしか約100名の同じ境遇の学生で作る新聞配達員労組の委員長になっていた。この京都市内に100名の組合員というのは中央紙、地元紙問わず各販売店、各本社に相応の影響力を持つ数であり、それが一気に公然化した。

1973年9月8日勤労会館にて。22歳の時
その結成・公然化集会には一人の女性の姿もあった。
実はその年の春、青年の配達区域の三十三間堂の近くで、週に1〜2回「しんぶん赤旗」を配る女性がいた。青年はこういう人なら理解があるだろうと、当時取り組んでいた「新聞代値上げ反対署名」をお願いしようと思った。新聞店や配達員の給与待遇改善と称しながらその実、新聞本社のみの厚遇を保障するものという実態を明らかにする取り組みだった。彼女には、当時まだ地上を走っていた京阪七条駅そばの喫茶店でその訴えをした。
彼女は保母で、所属する組合で頸碗症候群認定の戦いをしていて、名前は葉狩千代野さんと言った。
青年と彼女は組合公然化前後して、夫婦の約束をした。
そしてその年が明けまもなく4回生になる青年は、74年正月元旦号の配達終えた夜、
彼女を連れて寝台特急で京都から九州に向かった。…3年前青年一人で渡った関門海峡を、
今度は二人の「希望」を乗せ、ブルートレインは東から西に走った。
(完)
<あとがき>
4年間ほとんど大学に行けなかった青年は、「紛争」のおかげ(試験なしレポート可)で4年で卒業し、証書は二人で取りに行った。そして39年経った今も、毎年3/11〜/14、二人は彼女が住んでいた京阪七条駅付近など、読売新聞本町販売店の全配達区域を毎年少しづつ巡るのを恒例としている。
それは、「原点」の上に「今」があることを決して忘れないために…。
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