若田泰の本棚
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『文章読本さん江』
齋藤美奈子著
 著者は朝日新聞の書評欄で、的を射た辛辣な批評を書き綴っている。現代風な話し言葉をまじえて巧みに表現する著者の力量に感心していたが、その独特の文体は、著者が確信を持った上で用いていることが本書で明らかとなった。

 で、これまで出版された多くの「文章の書き方」とか「文章の上達法」といったいわゆる「文章読本」をやり玉に挙げて完膚なきまでに粉砕する。様式をわきまえぬ自分のような文体で何が悪いのだという著者の開き直りでもあるが、そこには文章への深い理解と愛情がみてとれる。大作家何するものぞという気概と、大家の前には萎縮しながら、「ワシにも言わせろ」とばかりに「ご機嫌で」滔々(とうとう)と講釈をたれる専門文筆業のひとたちの矛盾をチクリとやりこめる痛快さがこの書の魅力だ。

 「文章読本」には、大きく二つの問題が横たわっていた。ひとつは実用的な文章と芸術的な文章の区別はあるのか? 文章は簡単明瞭がよいのか、レトリック(修辞)を使った文がよいのか? 二つ目に、文章は「話すように」あるいは「思ったまま」を書けばよいのか、それとも一定の形式にしたがって書くものなのか? 

 そこで著者は、これまでの多くの大家(やそれに準じると思っている者)たちが語った、味わい深い好き勝手な御論説の整理を試みる。文章には、「情報伝達」と「自己表現」の二つの目的がある。もちろんどの文章も両方の要素を持っているのだが、文章によってその比重が違っている。

 これまで、大家や「ご機嫌の」講釈師たちが指南しようとしてきたのは、伝達用の文章に限るといいつつ、表現のための文章修行を勧めることであった。しかし、それは、自力で積み重ねていくしか方法はないといい、ただ名文を読む中で自分なりに体得せよというものであった。しかし、名文とは何かの定義ははっきりしない。どうも、大家といわれる人の書いたものが名文であるようだ。とすると、つまるところ、いくら「文章読本」を読んでも、文章力は上達しないわけであり、「文章読本」を綴る意味は全くないはずのものであった。

 ということで、明らかになったのは、「文章読本」執筆者たちの、「名文信仰と駄文差別」、それに(A)書きことば/話しことばということばの階層、(B)印刷言語/非印刷言語という文章内での階層、(C)文学作品/署名記事/無署名記事/素人作文という印刷言語内での階層であった。執筆者たちは、この階層社会における特権階級であることを誇示したかっただけじゃないの。

 著者の結論。衣装が身体の包み紙であるように、文章は思想の包み紙なのだ。「着飾る対象が『思想』だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう?」

 貴族の地位に安住し、思想を脇において、衣装にだけ苦心を払っている人たちへの一撃である。そうとわかれば、これからはまた、「話すように書け」という時代がやってくるのではないかと著者はいう。すでに、著者は実践しているし、メールことばは従来の書きことばとは異なったものになってきていると私も思う。

 それにしても、この書評でもずいぶんと取り上げてきた、女性評論家たちの一見過激ともみられる皮肉の利いた論説は、意外な見方を示してくれて面白いものが多い。このような痛快なものが書けるのは、女性のセンスか、既存の価値観や世のしがらみを気にしないからなのか。
『文章読本さん江』
齋藤美奈子著
筑摩書房
本体価格 1700円
発行 2002年2月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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