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戦時ファシズム下、1928年の3・15事件、翌年の4・16事件で社会主義者をほぼ壊滅させた言論弾圧の魔手は、次いで大学研究者に向かい、民主主義者や自由主義者にまでも及んだ。1933年京大で滝川教授事件がおこり、1935年には美濃部達吉東大教授の天皇機関説がやり玉に挙げられた。
東大経済学部でも、1939年ついに左傾学生の「思想善導」に力を注いでいた自由主義者河合栄治郎と「共産党分子を排撃した日本主義教授」だった土方成美までもが処分された。本書は、その当時の東大経済学部の教官採用・昇進、学部長選出などの人事に関する派閥抗争を追究したものである。
戦時下、軍部・右翼・政府の圧力の前に教授たちはどのような態度をとったのか。主人公は河合栄治郎、副主人公は右の土方成美と左の大内兵衛で、導入部は、大物の脇役、大森義太郎助教授の進退問題で沸き立っていた頃である。
3・15事件に関連して、マルクス主義学者大森を免職させるべく圧力がかかった。その時の辞職勧告に、大内はもちろん反対、土方は賛成、河合は黙する態度をとった。大森は辞職する。その後、土方は、大内をまき込んで河合追い落としに成功した後、大内派の殲滅にかかる。
まず、大内派の矢内原忠雄を辞職に追い込むと、1937〜38年の人民戦線事件に連座した大内の休職処分を教授会にはかる。ここで、河合が大内擁護にまわって逆襲する。しかし、狂信的右翼学者蓑田胸喜などの学外勢力の介入で河合はついに土方もろとも休職処分をうける。大森も河合も敗戦を見ずに他界した。これが経済学部派閥抗争の概略である。
象牙の塔に結集した叡智の集団であるべき学者たちが、虚々実々暗躍する暴露話としての面白さが確かにある。この話題は、あるところでは有名なようで、忠臣蔵になぞらえて語られたりもしているらしい。主従関係を終始守る者、一派から脱落する者、寝返る者、その理由は姻戚関係であったり生活のためであったり、「先見の明」であったりと、そこには様々の赤裸々な人間模様が見てとれる。
そういう見方をすれば、国盗りの主が次々と替わっていく「平家物語」や「国盗り物語」になぞらえなくもない。あるいは、俗物たちの愚かなあがきと眺める人もいるだろう。著者は、そんな冷ややかさを持ち合わせてはいないが、それでもみんな共通して「大学という病」にかかっていたという。
その病は、戦時下で十分ピークに達していたにもかかわらず、戦後、戦争犠牲者と認められた人たちが息を吹き返すことによって雲散霧消させられ、「大学自治」は守られたという幻想が長く残った。そのことを再度突いたのが、安田講堂事件に代表される1970年前後の「全共闘」の紛争だったと著者はいう。
これには異議がある。「大学という病」があるとしても、「全共闘」の言ったように大学を解体したり、現在政府がもくろんでいるような再編成をすれば解決できる問題ではなかろう。やはり大学の歴史的存在意義は正しく評価しなければならないだろうし、大学内部の者たちは、各人が何を判断や行動の基準にするかということを再認識することから始めなければならないだろう。
たしかに、戦中の態度について、一番正しいのはマルクス主義者(講座派)、次に大内などの労農派、ついで河合などの自由主義一派、かなり悪くなって土方などの「革新派」、話にならない蓑田らの狂信的右翼というように順位をつけて区分してみるのは、単純すぎるだろう。
しかし、彼らのとった行動は、決して師弟関係の偶然とか、なりゆきとか、立場上とかいうことではないだろう。たとえ、そうであったとしても、歴史はそれぞれがとった行動をもって審判する。困難な状況にあっても各人がどう判断を下して自己の思想信条を貫き守ったかということこそ、重視してとらえるべきだろうと思う。 |
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『大学という病 東大紛擾と教授群像』
竹内洋著
中央公論社
本体価格1800円
発行2001年10月
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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