あんな本、こんな本
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『親日派のための弁明』
金完燮著 荒木和博+荒木信子訳
 著者は1963年生まれ、39才の韓国の作家・評論家であり、日本の小泉首相を名指しで賛美している。

 著者は、主に、日露戦争から、韓日併合、大東亜戦争の時代を論じ、日本の朝鮮侵略の時代を取り上げ、「1905年以降、日本にとっての朝鮮は植民地というより拡張された日本の領土という意味合いが大きかったと思われる。当時、日本人は朝鮮と台湾を統治するにあたって、おおむね本土の人間と同じ待遇を与えた。とくに朝鮮に対しては、大陸への入り口という地政学上の重要性のために、むしろ本土以上の投資をおこない、産業施設を誘致するなど破格の扱いをしたと考えられるのである。それは、隣の店舗を買い取って店を拡張するような行為だったといえる。」としている。

 戦争の実体は庶民に塗炭の苦しみと死をもたらす非人間的行為であり、到底店舗の拡張行為にたとえられるものでない。「意味合いが大きい」とか、「おおむね」という言葉がいとも簡単に用いられ、事実を粟粒のように消し飛ばしてしまう勢いである。

 又、著者は「韓日保護条約(1905年)韓日併合(1910年)は、日本の弾圧によって締結側面はあるものの、朝鮮の志ある『一進会』を中心とする改革勢力のあいだに暗黙の合意があり、合法的な手続きを経て日本が統治権を摂取したとみるのが妥当であり、30年の日本統治の結果、人口は1000万から2500万人に増加し、平均寿命24歳から45歳になり、朝鮮は農業社会から近代的資本主義へ移行することができた。優秀な日本教師によって朝鮮人教育が進み、日本より莫大な資金の流入し、各種インフラの整備され1920年代日本への米輸出することによって大金持ちが誕生し、民族資本が成立した。1920年代の文芸復興もそのおかげである」と論じている。

 生きた現実というものは、明確に割り切れるのもではなく、Aと非A、反対のものがせめぎ合いながら同居しているものであり、その総体が現実である。言い換えれば過去の歴史的事実は否定のしようもないそのような過去の現実の集積である。したがって、物事の本質を見るためには、視座をどこに置くのかが大切になってくるのではないか。朝鮮に人的、物的資本が投資された結果、各種のインフラ等が整備されたのは事実であるとしても、それは日本が自らの利益を増殖するために投資されたものであり、主権を奪われた朝鮮の人々が数々の差別の中で苦闘を強いられてきた事実を帳消しにするものではない。

 歴史を俯瞰し、考えるとき、すべての結果を良しとして捉えるのは、弱者を犠牲にして生き延びてきた勝ち組み人々の思想ではないか。時の支配者や、侵略者、殺す側の立場に立ち、それを是としてみるのか、そのとき支配され、侵略された側、殺される側に立つのかで史観はおのずと異なってくる。

 また、著者は大東亜戦争を「当時の国際情勢からして、十分に名分のある正しい戦争である。私たちが侵略と征服の歴史を考えるにあたっては、ある民族がべつの民族を侵略し、征服することは悪だという一面的な見方を捨て、果たしてその征服の本質は何であったのかに注目する必要がある。民族という概念は、それが発明されて、200年しかたたない政治的イデオロギーにすぎず、現代社会では除々に捨てられつつある旧時代の遺物である。民族ごとに独立するのが当然だという論理も近年流行の民族国家の自己合理化にすぎず、それが歴史を評価する基準になることはない。日本の東南アジア進出は、西洋帝国主義と違って、搾取と収奪が目的ではなく、革命と近代精神を伝播しようとの意図が前提になっている。このような点において、十分な正当性をもちうる。」としている。

 民族という概念は発明されたものではなく、イデオロギーでもないのではないか。侵略にもよい侵略があり、征服にもよい征服があるという論理も、あきれる論理で、言葉としても自己矛盾であるが、侵略の本質が何であるのか見極めることは必要である。著者は、歴史的事実の可否を判断するときは、何をもって尺度とするのだろうか?歴史の中で培われてきた「革命と近代精神」とは、個人の生命、基本的人権の尊重、民主主義の擁護という価値観であり、国家間の原則では、内政不干渉、自主独立、民族自決権などがそれであるだろう。それは、200年以上もかけて、人類が到達した価値観である。だが、著者にその観点はないようである。

 著者は「被害というものは、相対的な概念で、人権とか、戦時補償とかいう言葉は、本質的に人権が保証されている人間らしい社会で生きる人びとにあてはまる言葉であって、未開な社会に属する住人たちには縁のない概念といえよう。(朝鮮の)春の端境期のたびに人々が餓死したり、伝染病で人々が死ぬという時代に、戦争にひっぱられたり、数ヶ月のあいだ、望まぬ慰安婦生活を送ったからといって、現在の基準で判断して日本を非難するのは不自然だ。」と言い切っている。

 被害は相対的概念であると主張する著者は、結果的に人権や、人の生命も相対的な価値しかないといっている。その社会が、未開であろうと、発達した社会であろうと、人権や人の生命は絶対的に犯してはならない絶対的な価値をもつ概念であって、著者のその論理は近代を封建時代に戻す主張である。

 また、現在、世界には偏狭な民族主義の問題が山積している側面はあるのだが、大国主義や侵略を正当化することによって偏狭な民族主義がなくなるものではなく、その逆である。

 本書は以上のような前提で、各項がさらに論じられているのであるが、全体は1986年の文部大臣・藤尾正行氏の発言内容の肉付けのような内容になっており、特攻の精神を尊ぶ小泉首相を名指しで賛美している。本書は戦争を知らない日本の若者に向けて、あるいは、保守層の理論武装のため、大々的に広告宣伝されており、看過、軽視できない動きではないかと考えられる。先ほどNHKで放映された、旧軍人の確信犯的海上自衛隊(海軍)の再建経緯とあいまって、有事立法の総仕上げのための政治的な暗闇の動きを感ぜざるをえない。
親日派のための弁明
『親日派のための弁明』
金完燮著 荒木和博+荒木信子訳
発行所 草思社
発 行 2002年7月 本体価格 1500円



 筆者紹介
瀧本正史
京都市内の宝ヶ池近くに居を構える自由人。長年のサラリーマン生活から解き放たれるや、持ち前の遊び心が溢れ出て、写真、渓流釣り、そして読書と興味は広がる。本誌に写真を多く寄せている。つれづれなるままの読書の記録。
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