あんな本、こんな本
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『スローグッドバイ』
石田衣良 著
 ふと、新しい経験をしてみたくなり、ドアーに鍵をさして開けてみるようなつもりで、柄にもなく恋愛小説なるもののページを開いてみた。

 表題の「スローグッドバイ」は10篇からなる短編の一つで、その他の短編のいずれもが、現代の都会の洒落た男女の恋愛の物語である。その中で、「スローグッドバイ」と「フリフリ」が光っていると思った。

 物語は油絵ではなく、淡い透明な色で書かれた水彩画のようなタッチで書かれており、物語中の男女が織り成す、自由なセックスを含む相互の関係は、筆者のような、古世代の生物にとっては、正にバーチャルリアリテイとして受け止めざるをえないのであるが、文学が良くも悪くも現実の反映であるとすれば、それは現代社会の若い世代の実相を反映していると受けとっていいのだろう。

 40代である著者は、「フリフリ」の中で「光の川に手をつけるように右手をかるくあげタクシーを止めた」とヘッドライトに輝く街と人の情景を表現し、随所に達者な文章力を覗かせている。

 著者はアウトドアー派ではなく、シテイ派であり、カメラをもって街に「取材」に赴き、街の雰囲気を撮り、自宅へ持ち帰るが、出来上がった写真を観て、小説を書くことはあまりなく、写真を撮ること自体が、その街を掴む行為であるという。著者にとって人工の街の建物や電車、自動車、人々の動態が、いわば自然であるのだろう。

 今も昔も、男が女を好きになり、女が男を好きになる理由は不可解なことが多く、それぞれの個人は世界に一人しか存在しておらず、そのありようは千差万別であり、それが故に文学はそれを書いて止まないのであろう。

 筆者は、愛という言葉は、千差万別の事態の抽象的表現であり、それ自体は不可解といってもよいのではないかと思っている。その意味で、小説や詩の中に愛という言葉を多用することは具体的な表現の努力を放棄しているようで好きではないのであるが、著者である石田衣良氏は愛という言葉を多用せず、具体的事実を淡々と書くことによって男女の心理関係を描こうとしている。

 そして、物語には、弱者に対する思いやりとやさしさが込められており、小さな希望が見え、その点に好感がもてる。

 戦後間もなく、1946年に坂口安吾氏は堕落論の中で、『我々は「健全な道義」から脱却することによって、真の人間へ復帰しなければならない。』と主張した。敗戦後57年の歳月を経た現在、「スローグッドバイ」や「フリフリ」に出てくる日本の男女は、たしかに旧来の因習や、半封建的道徳にとらわれず自由で平等なありかたで生きており、脱皮して羽化しつつあるさなぎのようでもある。

 そして、それが坂口安吾氏がイメージした真の人間であるかどうかは別として、セックスの関係はあるのであるが、お互いにより中性に近い存在になっているようである。また、物語のいずれの男女の関係も、これから始まる相克の入り口にいるにすぎない。本当の人生はこれから始まるのであるが、それを描くことは、この「いやし系」の短編の意図するところではないのであろう。

 しかし、筆者はこの新しい日本の若者が脱皮してどんな形の蝶になるのか、気になるところである。現在その形は定かではないが、この物語を貫く弱者へのやさしさが、社会的な強さになって羽ばたいていくことを信じたい。
スローグッドバイ
『スローグッドバイ』
石田衣良 著
発行所 集英社
本体価格 1500円



 筆者紹介
瀧本正史
京都市内の宝ヶ池近くに居を構える自由人。長年のサラリーマン生活から解き放たれるや、持ち前の遊び心が溢れ出て、写真、渓流釣り、そして読書と興味は広がる。本誌に写真を多く寄せている。つれづれなるままの読書の記録。
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