あんな本、こんな本
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『追憶の山本宣治』
田村敬男 編著
『山宣の筆跡で、宛書きの左下に《平安》と認めてある。この手紙が官憲の手を免れて平安無事に着くように、という意味である。』と当時手紙を受け取った友人が書いている。山宣が手紙を出したのは1929年2月24日のこと、手紙は無事友人のもとに届いたが、山本宣治氏は、同年3月5日、右翼の暴漢の手によって殺害された。

 山宣の書斎には、「戦争撲滅」と大書きしてあり、その下にはラテン語で「生命は短し、科学は長し」としるされてあった。今から73年前の古い話である。しかし、筆者は書棚に眠っていた本書を、再読して、これは決して古い話ではないと思うようになった。

 当時の日本は1920年の第一次大戦後の反動恐慌以来、23年の関東大震災の打撃をインフレ政策で取り繕った矛盾が爆発し、27年3月金融恐慌が勃発し、銀行の倒産が続発、預金引出しのため預金者の列は銀行の表に長蛇の列をなし、経済界は一時麻痺状態に陥った。

 当時の若槻内閣は、金融恐慌処理問題を機に倒壊し、田中儀一陸軍大臣を首班とする内閣が成立し、1928年中国革命に対する干渉の戦争、武力侵略を開始する。国内的には、同年、3月15日、日本共産党の一斉検挙がおこなわれ、死刑規定を盛り込んだ治安維持法の更なる改悪が国会に上程されようとしていた。

 労農党代議士であった山本宣治は、ただ一人、この治安維持法改悪に対しての反対演説を国会で行おうとして、神田の宿舎、光栄館にて殺害された。

 当時は治安維持法以外の法律でも、「濫りに他人の身辺に立ち塞がり、又は追随したる者」や「公衆の会同の場所において公衆の妨害をなしたる者」等々は「保護検束」という名の下に逮捕、投獄、拷問された。反戦の思想の持ち主を死刑で処罰する治安維持法は、戦争へ突き進むための総仕上げであった。

 山宣の反対演説草稿を読むと、「従来の例によれば、当局は、議会で説明した点や、司法省や内務省で声明を発していたことを、何の造作もなく出鱈目に解釈、適用しさって、「嘘のための方便」となっている。」と述べ、法律として曖昧な条文が、拡大解釈されている状況を糾弾している。

 為政者が「治安」とか「保護」を言い出し、法律の条文を曖昧にする意図は、時代背景は変化しても、共通のものがあるのではないか。

 本書には、編者の田村敬男氏をはじめ、大山郁夫、川上肇、片山潜、谷口善太郎、安田徳太郎らの著名人の追悼文と共に、山宣の友人達の、山宣の人柄を彷彿とさせる思い出が、あたたかい、真摯な文章で綴じられている。

 これらの文で、京都が生んだ良心的インテリゲンチアの戦闘的な生涯に触れるとき、勝手気ままで意志薄弱な筆者など山宣の足元に遥か及ばないと思う一方、現在我々が享受している憲法に保証された民主主義は、先達の尊い犠牲の上に勝ち取られたものであることを深く肝に銘じるべきであると自戒する気持ちになった。

 有事、君が代、個人情報保護等が喧伝されている中、再読の価値ある一冊である。(本書は1964年初版の1977年再販のものであり、書店で求めにくいかもしれない。筆者が若輩のころ田村敬男氏より購入した本書がまだ5冊手元にある。ご希望の方があれば、このサイトのご意見掲示版でご連絡下されば、無料でお譲りします(但し、送料はご負担ください)。
追憶の山本宣治
『追憶の山本宣治』
田村敬男 編著
発行 昭和堂
本体価格 1000円



 筆者紹介
瀧本正史
京都市内の宝ヶ池近くに居を構える自由人。長年のサラリーマン生活から解き放たれるや、持ち前の遊び心が溢れ出て、写真、渓流釣り、そして読書と興味は広がる。本誌に写真を多く寄せている。つれづれなるままの読書の記録。
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