
| 2012/3/31 | 確か、中学ぐらいからか「なぜこの国の人たちは戦争に進むことをとめられなかったのか」ということがずっと疑問で、近くの大人たちに心の中で個人的に責任追及していたような気がする。 平和を叫んでいる人たち、平和運動をしている人にも、心の中で、「今頃やらずに、そのときやってたらよいのに」などと思っていた。 そんなことを最近がんばっている朝散歩の途中に思い出しながら考えていたら、「非国民」ということばが浮かんできた。 瓦礫(思い出がいっぱい詰まっているものをこう呼びたくないが)処理を受け入れるかどうかが日本中の議会で問題になっている。相次いで受け入れを表明している自治体が出てきた。 私の疑問は、放射能の問題はさておき、あれだけたくさんのものを、全国のあちこちに運ぶ経費が莫大ではないのだろうかという単純なもの。 大きな処理施設を東日本に作り、そこに運び込み放射能の検査はしっかりと東電に費用負担をさせて安全を確保するのはどうだろうか、というようなことを発言したら、(もう書いてしまったけれど)被災地の痛みがわからないのか「非国民」といわれそうだ。 今問題になっているのは放射能の問題。これは明らかに東電の責任、そしてその政策を進めてきた自民党政治、なぜもっと責任追及しないのだろうか。電気代をあげるといっているのも、よくそんなことがいえると思うのだが。 消費税増税の問題も反対すると「この国難に自分のことばかり心配して非国民」といわれているような気がする。どう考えても、一番弱い層を直撃する消費税は弱いものいじめ、弱いのは自己責任ということのよう。弱い人が生きられない国。 そして極めつけは「弱い人にはウソついてもよい」ということをやってのけた民主党政治。その先には「障害者のことばかり言って、みんなたいへんなときなのに非国民」といわれているよう。 イロウをつけている人のことをエイリアンと呼び、医療費を無駄に使っている非国民というキャンペーンが張られている怖さ。 「子ども子育て新システム」が閣議決定された。なんだかんだ言っても、反対しているのは保育所に入っている人、どんなかたちでも預かってもらえたらよいのじゃないの非国民」といわれているんじゃないかな? この国の民主主義がどんどん無くなっていっているような気がする、大阪の動きも不気味。私が生まれる前の日本はきっとこんなかんじで、国民の誰もが戦争に巻き込まれていったのではないだろうか。 もう私は子どもでも出世を気にする年齢でもなく、間違いなく人生の後半に入り、残りの時間のほうが生きてきた時間より短い。この国にこれから生きる子どもたちのために、もう一度、というか、今まで根付いてこなかった人間の平和な社会に生きる権利を保障するために力を出したいと思う。 その一歩は、「なぜこうなったのか」ということを反省とともに総括することではないかと考える。この国は誤ったり反省しない国だから。 今一番思い出したいのは、世界で初めて被爆を体験した広島や長崎。この地の人たちが一番苦しんでいるにもかかわらず、世間から白い目で見られたり差別された歴史があったこと。 この事実を総括し、地震や津波や原発事故で、一番苦しくてつらい体験をした人たちが、被災後もっと苦しい立場になることを食い止めること。 「しんどい」といえること、「たすけて」といえること、「もうがんばれない」といえること、「やすみたい」といえること、 日本中の人が弱音を吐いても許される社会をつくりたい。 今日は3月31日明日から新年度が始まる。心機一転、人に言う前にまず自分から。「しんどいよー」です。(いけぞえもと) |