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『司法官の戦争責任 満州体験と戦後司法』

上田誠吉 著
 ずっと気になっていたのは、戦争下、治安維持法に基づいて起訴したり裁いたりした司法官とはどのような人たちで戦後どうしたのかということだ。とくに、「満州国」において、憲兵たちが行なった中国人愛国者たちへの数え切れぬ暴行は、少しは法に根拠をもったものだったのか。そうであるならばどのような司法官がどう考えて裁定していたのか。司法官に中国人はいなかったのか。そして、戦後の司法界はそのことをどう総括してどう反省したのか。著者は、戦後の民主主義にかかわる多くの裁判において庶民の側に立って論陣を張ってきた弁護士で、本書を読むことで、私の疑問のいくつかは解消できた。

 まず、「満州国政府」の官吏の配置には、実権は日系が握りながら表面的には満系が執行しているように見せる特段の工夫がいる。これを決めたのが日満定位(にちまんていい)であり、それぞれの官庁について両系の占める占有率を決めたのが日満比率で、これらを決める権限を関東軍参謀部が独占していたという。なるほど、それで被疑者の罪科の認定や量刑を中国人のいないところで自由勝手に決められたわけかとひとつの点は納得する。

 ほかにも、知らなかった「政府」機構のからくりを次々と教えてくれる。まず、「満州国」に代議制の立法府は存在せず、事実上代替したのが参議府だった。参議府は執政・皇帝の最高諮詢機関だから、参議府秘書局長はすべてをチェックできる立場にあった。その秘書局長には判事出身の日本人がつぎつぎと任命された。こうして司法制度の中枢は宗主国日本が意のままにできる仕組みが完成していたのである。

「満州国」の治安体制を維持するためという名目で、実は「匪賊(ひぞく)討伐」を行なう根拠となる法には、「盗匪法(とうひ)法」と「叛徒(はんと)法」というものがあった。前者に違反すれば死刑または無期徒刑、後者でも無期または十年以上の徒刑というもので、裁判は一審しか認められていなかった。しかもその上、「盗匪法(とうひ)法」には裁判なしの処刑を認める規定があった。すなわち、軍隊や警察隊は「討伐」の現場で「盗匪」を「臨陣格殺」することができ、捕虜となったり逮捕された「盗匪」を「裁量措置」することができたのである。「格殺」とは撃ち殺すあるいは殴り殺すこと、「措置」とは殺害することである。32年から40年までの「匪賊」の死者数6万5943人には「臨陣格殺」あるいは「裁量措置」された人たちが含まれているのだ。

 その後、これらの法制度でも時間がかかりすぎるということで、さらに簡便な特殊裁判機関が1938年に設置された。「治安庭」といい、「重大治安犯罪事件」を扱うものとされた。検挙者の多さから、やがてこれでも対応できなくなると「特別治安庭」が設置され、法院以外の場所でも開廷でき、弁護人も不要、死刑の執行は銃殺も可、執行は軍警に委嘱してもよいということになった。これではもう裁判の体をなしていない。そして1941年になると、「満州国」の治安維持法が公布・施行された。そこにいう「満州国」の「国体」とは「日満不可分一徳一心」とされ、日本の「国体」思想が「満州国」を呑み込んでしまった。

 治安維持法の立法に関わったのが飯守重任であった。飯守は敗戦後戦犯として撫順に収容されたとき、「熱河粛正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に強力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している」と手記に書いたが、戦後はそのことを否定した。

  1960年代、鹿児島地裁所長のとき突出した右翼的言動で物議をかもしていたことを思い出す。砂川事件第一審で安保条約は憲法違反との明確な判決を下した伊達秋雄(1957年)ら数人の裁判官たちを除いて、多くの「満州国」司法官たちは戦争責任や植民地責任の問題を省みることはなかった。敗戦後のGHQによる公職追放でも、裁判官はすべて無傷のまま残った。現在、司法の右傾化が言われ、憲法の民主的条項に離反した判決が下されるのも、戦中の司法を不問にしたまま今に至ることと無関係ではないだろう。

『司法官の戦争責任 満州体験と戦後司法』

『司法官の戦争責任 満州体験と戦後司法』
上田誠吉 著
花伝社
発行 1997年5月
本体価格 1800円+税



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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