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『医療崩壊』

小松秀樹 著
  「医療崩壊」という表題は大げさにみえるが、著者は今の医療に対して心底危機感を抱いている。それは医療機関に働くわたしとて同じ思いで、一般の方たちとはズレがあるかもしれない。
 
 著者は虎の門病院に勤務する現役の泌尿器科医、さきには『慈恵医大青戸病院事件』(日本経済評論社)を著わして医療事故についての見解を述べている。医療関連法が成立し、秋からとくに高齢者への負担が重くのしかかってくるが、この重大法案が十分に議論されたとは思えない。
 
 いったい、マスコミの論調は、医療費の高騰をどう食い止めるかという政府の論調を後押しして、医療機関に多くを要求し、国民の医療不信をあおっているようにみえる。住民と医療側との離反が、次々と打ち出されてくる医療改悪を許しているようである。
 
 一方、医療側の論陣としては、開業医の経営を優先する医師会などの立場が目につくくらいで、勤務医の意見は余り知られてこなかったのではないか。本書には、主として入院医療を担っている大病院の勤務医の率直な意見が述べられていて、教えられることが多い。

  医療機関へのダブルパンチは、医療費抑制と過度の安全要求である。
 
 安全重視は必要なことだが、その為には経費がかかる。次々と減収を仕向ける医療制度の中で安全対策に出費することは医療機関にとって大変である。政府のねらい通りことは運び、淘汰され閉鎖する病院が続出している状況だ。
 
 しかし、医療崩壊の心配はそれだけにとどまらない。
 
 著者によれば、患者の無理な要求を支持するマスコミ、警察、司法から不当に攻撃されて、医師たちが意欲を無くしているという。困難な医療を好まず、危険の少ない科を選び、難しい患者はすぐに病院に紹介できる開業医の道を選ぶ医師がふえており、すでに若い医師の間では、産科医や小児科医、外科医を志望する者が激減しているという。

 過度の安全要求は、医療訴訟の増加に顕著である。誠実に患者のためを思って医療を行なっていた医師が、あるとき不可避的な事故に関わって、一身が警察や司直の手に委ねられることは耐えられることではない。
 
 これまでも医療事故を警察が扱うことの問題性は言われてきた。
 
 著者によれば、刑法では医療事故も暴力団による傷害と同じに扱われるのだという。それは、意図的かどうかとか不注意の程度に重きを置くのでなく「結果の重大性に重きをおいて評価する方法」(結果違法説)によっているからだそうだ。
 
 そこで著者は、医療事故調査は警察ではなく専門機関に委ねること、紛争の解決は裁判ではなく裁判所以外の第三者機関によって行われるべきだとする。
 
 また、スエーデンなどで用いられている無過失補償制度の導入も必要で、医療者に過失があるかどうかの争いに無駄なエネルギーを割くのでなく、ともかく素早く補償することが大切だと言う。
 
 この制度では、医療側も積極的に報告できるから、医療過誤被害者を公平に救済することになるという利点がある。
 
 もうひとつ変わってほしいのは患者側の意識で、最近は際限のない安全を要求する権利があるというふうに突き進んで来ているのではないかと著者は危惧する。あらゆることを想定して万全の体制で診療を行なうことは保険診療上許されないし、患者は検査漬けになってしまうから現実的でない。なによりも、生老病死はいつか人に訪れるもの、医療は危険の上に成り立っているとの認識を一般の人たちに持ってもらうことが大切なのだと記す。

 わたしも、筆者の提案に概ね賛成する。
 
 しかし、行き過ぎはあったにしろ、一定期間こうした医療側への厳しい社会の監視の目が必要だったのだとも思う。過去の医学犯罪、繰り返す薬害、公害や労災においても迅速に病者の立場に立ちきれなかった歴史、医学界特有の専門性、密室性、封建制、そして医師のエリート意識の中で、自浄作用を果たせてこなかったツケが回ってきたのだろうと思っている。
 
 「青戸事件」の地裁判決は、医師たちが経験のないまま人体実験的に手術を行なって死に至らしめたとされた。わたしは、この判決に対しても医師たるものは絶対にそんな非道なことは行なわないと言いきる自信がない。
 
 それは過去の戦時中の医学犯罪について医学界として全く無反省なことにも関わる。求められているのは医学界内部での人権に対する真摯な反省である。その上で、司直の手によらない調査制度を確立することが可能になるのだろうと思う。
 
 将来は医療側がみずから積極的に、人権の尊重と安全を第一に考え実践することで、萎縮してしまった医学・医療に新たな展望が見えて来るだろうと思う。住民と医療側との信頼関係がすすんだ時点で、医療や福祉に国費を使うことの理解がえられるだろうし、それれを拒む政府への批判の声も高まっていくだろう。
 
 そうなってはじめて、住民は安心して医療を受けられるようになるのだと思う。

『医療崩壊

『医療崩壊』
小松秀樹 著
朝日新聞社
発行 2006年5月
本体価格 1600円+税



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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