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アジアを侵略した15年戦争の下で、帝国主義軍人として外地へ赴いた人たちはどのような残虐を働いたのか、戦後もほとんどの人が何も語らなかった。
家族と別れ出征した肉親が戦死した、あるいは空襲で肉親を失ったり家財を焼かれたりした、原爆後遺症で苦しめられた、大きな被害はなかったが食糧難などでたいへんな苦労をした、沖縄では「ひめゆり部隊」の若い女生徒たちが命を奪われた、だから戦争には反対だ。これまで、こうした被害者的側面だけが強調されてきたように思う。
本書は加害者としてのトラウマを記したものである。かといって、著者は戦後生まれ、戦争体験もないし、もちろん直接戦争責任があるわけではない。しかし、著者は父親の戦争責任を引き継いで、和解の道を求めて思索を重ね、本書を著わした。
憲兵だった著者の父は、死の近い1986年、「おい、俺が死んだらこれを墓に彫りつけてくれや。なあ、頼んだぞ」と中国人へのお詫びの紙切れを手渡した。うけとった著者は、親族などの抵抗はあったが、12年後やっと父の遺志通り、墓の隣に先の文句を刻んだ碑をたてた。
ついでながら、この間のことは、野田正彰『戦争と罪責』岩波書店(1998)で詳しく紹介されている。嫌なことを記憶の外に追いやるのは自己防御のために必要なことかもしれない。とくに人を傷つけた側の人間は、そのことをすぐに忘れてしまうものだ。『戦争と罪責』は、そんな多くの人たちと違って、みずからの罪をとことん追及する数少ない人たちの心のひだに深く筆を進めた感動の書である。
本書にもどる。著者は、どうしても中国で父が何をしたのかが知りたくて、父のいた中国東北部東寧(とうねい)に旅立つ。著者にとって、悪業を働いたであろう父の罪を知る旅をすることは、中国の人たちへの償いであるとともに自分自身の「生」の意味を確認することでもあったのだ。
両親の不仲、長兄の離反、次兄の自殺という不幸な家族の原因に、父が償えなかった憲兵としての過去が関係しているのではないか。著者自身もカウンセリングをうける中で、父の罪を知ることが、家族の不幸の原因をさぐり、父と自分の贖罪のつとめであるという結論にたどり着いたのだった。
それにしても真摯な著者である。遂に、東寧の近くの石門子で、父の一隊を知っているという人を訪ね当てた。父以外の4人は思い出したのに、父のことは覚えていないという。「覚えていないということは、そんなにひどいことはやらなかったのだろう」と慰めるようにいう中国人のことばに、著者は、「覚えている」といえば「どんな事をやったのか」と聞かれるのを恐れた自分への思いやりではなかったかと思い至る。
「戦争反対」を叫ぶ人は多いけれど、それをいう前に、まだまだ加害者としての事実が明らかにされてきていないことを知る必要がある。著者のような侵略戦争における加害責任へのこだわりが、私たち戦後世代の責任のとりかただとつくづく思う。 |
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『憲兵だった父の遺したもの』
倉橋綾子著
高文研
本体価格 1500円
発行 2002年2月
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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