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『漢字と日本人』
高島俊男著
 「日本語は漢字とかなから成り立っている」という程度の関心しか示さないで使っている日本語について、本書で教えられることはまことにたくさんある。

 漢字が伝来する前からもちろん日本語はあった。これが「和語」あるいは「やまとことば」。そこに入ってきた漢字を使って文字表記をするようになった。和語にそのまま当てはまるものにはその漢字を当てた。これが訓読みである。また、漢語をそのまま日本流に訛(なま)って取り入れもした。これが音読みである。

 伝来した時期によって「漢音」と「呉音」がある。「文(ブン)」「正(セイ)」のような少し硬い感じでよく使われているのが漢音、「文(モン)」「正(ショウ)」のように柔らかく少し特殊な音読みが呉音である。一方、漢字の意味は無視して、音だけを利用することも用いられた。これが「かな」の起こりである。こうして日本語の文章の原型ができた。と、ここくらいまででも耳新しい内容が多くある。

 著者の考えをまとめて記すことにしよう。ひとつ、和語に漢字をあてるおろかさ。「旅篭(はたご)」「草鞋(わらじ)」などの和語を漢字で書く必要はない。「とる」という語は古くからあった。和語の後から漢字が伝わったのだから「取る」か「採る」か「撮る」か「捕る」かなんて迷う必要はなく「かな」で書けばよいという。「はかる」(計る、測る、量る)も同じ。すなわち、漢字の多い文章が格が上ということはない。著者は、「かな」を添えものとみる日本語の一般的価値判断に対して異議を唱え、漢字崇拝をいましめている。

 新語の洪水は明治以後におこった。急速に西欧文化を取り入れる中で多くの翻訳語がつくられた。増えた語は「和製漢語」である。ここに、同音異義語が飛躍的に増加し、音声が無力となり、ことばが文字の裏付けをまたなければ意味をもちえなくなった。「コーソー」と聞いてもそれが「高層」なのか「構想」なのか「抗争」なのか「高僧」なのかはわからない。こんな言語は世界に例がないほど特殊だという。 

 さらに、西洋に目を見開いた日本は、西欧のすべての国は音標文字(表音文字)であることに気づき、日本の漢字を廃止することを方針とした。しかし、すぐには実現できないゆえに、当用漢字などという漢字の制限を始めたのである。それが第一の誤りであったと著者はいう。

 もう一つの誤りは、その漢字軽視の過渡期に、不統一な略字がつくられたことだ。「專」は「専」になり、「轉」は「転」になり、「團」は「団」になってそれぞれの漢字の縁が切れてしまった。「廣」の「黄」も「佛」の「弗」も同じ「ム」になった。これはとりかえしのつかない誤りであったという。メモに略字を使うのは自由だが、歴史をもった文字はその伝統を大切にしなければならない。

 著者の結論、漢字は制限してはならない。それは日本語を貧しいものにしてしまう。制限するのでなくなるべく使わないようにすべきである。とくに、ワープロやパソコンの普及した今、字体が複雑であっても、十分に対応できるはずである。過去に誤りはあったにしても、いまさら後戻りはできない。私たちが唯一自由に使える大好きな日本語、その歴史と値打ちを本書で知り、これからも日本語を愛し大切に扱いつづける決意をもつことが求められている。
漢字と日本人
『漢字と日本人』
高島俊男著
文春新書
本体価格 720円
発行 2001年11月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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