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『七三一』
吉永春子著
 ラジオ東京(現TBS))に入社した1955年、局から戦後の謎の三大事件(帝銀、下山、松川事件)の調査を命じられた著者は、帝銀事件から「七三一部隊」に突き当たり、以来ずっとそれらを追い続けてきた。そして、1975年8月から1982年6月の間に、著者が編集した「魔の七三一部隊」が4回シリーズで放映された。「七三一部隊」の問題が一般に知られるようになったのは、森村誠一「悪魔の飽食」が「赤旗」紙上に連載された1980年頃と記憶しているから、随分早くから事件に着目していた一人といえる。関係者への突撃インタビューの回想から最近までに得た調査結果について記したのが本書である。

 「七三一部隊」とは何か? 関東軍防疫給水本部・七三一部隊(石井部隊)は、石井四郎軍医中将によって、侵略戦争下の1938年中国東北部(旧満州)のハルピン郊外平房(ピンファン)に創設された。実は、それは細菌戦兵器の研究・開発を目的とし、致死的な生体実験を秘密裏に行なうための一大研究施設であった。部隊の幹部は職業軍人ではなくて医師であり、その活動には当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが大勢協力していた。実験材料「マルタ」にされたのは「特移扱」とよばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人達だった。彼らはスパイや思想犯の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人たちで、3000人以上が犠牲となった。敗戦後の1946年石井は千葉で発見され、アメリカ占領軍により2年間にわたり尋問されたが、研究結果をすべて米国にひきわたすという「とりひき」で戦犯免責された。ハバロフスク裁判(1949年)や中国による取り調べがおこなわれ、一部の医師たちが裁かれはしたが、実態は闇の中に葬られたままとなった。主だった医学者たちは「戦争犯罪」あるいは「人道に反する罪」として公に裁かれることはなく、戦後大学教授や研究所長の要職を務めた。

 真相があいまいにされたまま今日に至っているのは、著者が味わった放映後の「嫌がらせ」や「罵声」に代表される一部の右翼勢力や、一貫して侵略戦争であったことを反省せず戦後責任を取ろうとしない政府の存在とともに、ジャーナリズムや国民の無関心も大きいだろう。ハバロフスク軍事裁判の記録が日本に持ち込まれたのは1950年であったが、注目したものはほとんどいなかった。「悪魔の飽食」の誤った写真掲載を理由に著書そのものを葬り去ろうとした勢力のあったことも記憶に残っている。「七三一部隊」に関係したもののうち、憲兵とか少年兵など比較的責任の軽い(?)者の中には、ごく少数ではあるが当時の状況を語る者もいたが、「七三一」に深く関わったことを公表し反省した医師は秋元寿恵夫を除いて私はほかに知らない。

 戦後、検査所長のポストを手に入れていた元七三一部隊員の医師は、1976年に著者のインタビューに対して無反省にこう語っている。「今だって医薬品なんか、動物でいろいろの薬品の効力を調べて、その上自信がつくと初めて人間に使ってみる。多数のあちこちの病院で使ってみて、確かに相当の効力があるということで、薬事審議会が許可するというのが、今のやり方です。この過程をいくらか縮めたということになりますかね」

 こうした思想が戦後も生き続ける中で、薬害エイズや薬害ヤコブ病が発生した。また、靖国神社にどうしても参拝したがる日本の現首相の思想と無関係とも思えない。本書は、日本の戦争犯罪を知り今日の民主主義の成熟度を考える上でも、重要な書である。
七三一
『七三一』
吉永春子著
筑摩書房
本体価格 1600円
発行 2001年12月



 筆者紹介
若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。
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