性同一性障害は、“精神的な性別と肉体的な性別が一致せず、かつ、そのことで困難を抱えている状態”だとおおむね定義されています。
私はこの連載で、“精神と肉体の不一致”と“それにまつわる困難”を書きたいのですが、情に流され、なかなか順序だてて書けません。
なので読んでいただくときに、「縷々気持ちがつづられているけれど書かれていることは要はその二つなのだ」と思ってもらえると、たいへんありがたいのです。
という前置きをするのは、今回もちょっとややこしくなりそうだからです。
先日あるグループに呼ばれて、性同一性障害の話をしてきました。そのとき、体への嫌悪感と言うがそれはたとえば自分の顔が嫌いといったこととはどう違うのか、との質問をいただきました。
その時、実感を一応言葉にしたのですが、うまく言えませんでした。
実はこのことは、数年来自問していました。性別とは直接関係のないことで、嫌いな体の一部が私にもあります。しかし、その嫌悪感と、性別をめぐる体の嫌悪感とは質的に違う感じがしていたので、この違いは何なのだろうとずっと考えていたのです。でも、クリアな言葉は見つかっていませんでした。
それが最近少し、はっきりしてきた気がしています。先の質問に、あらためて答えてみたいと思います。
私は自分の体のうち、男性を表す部分を目にすると、とてつもなく「嫌だ」と感じます。ため息をついて、あ〜嫌だ嫌だと心の中で5回ぐらいは叫びます。だから性同一性障害をめぐる実感を書いたり言ったりするときに、「嫌悪感」との言葉を使っていました。
でも、これは表面的な感覚ではないかと気づきました。自分の感触を深く、冷静に見つめると、浮かんでくる言葉は、「体が見つからない感じ」です。
女である自分が当然持っているべき女の肉体がイメージとして私の頭脳にはあるわけですが、実際にはその体は無い。
私の意識だけが宙に浮いていているような感じ。自分が確かにここに居るという感覚が薄い。
そういう言葉が次々に浮かんできます。
思えば私は、こう、物理的に何かにすがりつきたい情動が妙に強いように思います。柱とか、手すりとか、人の手とか。冗談みたいですが、でも、自分を「ここ」へ繋ぎ止めておく物理的な手がかりを欲している気もします。
精神的な性別と肉体的な性別の不一致からどんな辛さが生じるかを説明するとき、私はこれからは、「体への強い嫌悪感」とはあまり言わず、「体が見つからない感じ」あるいは「自分がここに居るという感覚が薄い」と言おうと思います。これはあくまで私の実感であり、性同一性障害の一般的な説明とは異なるのですけれど。 |
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筆者紹介 |
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タカノキョウコ
会社員・団体職員を経て、現在、フリーランスコピーライター。00年、大学医学部付属病院で性同一性障害の診断を受け、精神療法から治療開始。02年、性同一性障害を理由に戸籍名を変更、03年に転居をし、地域生活・家庭生活・仕事など、生活すべてを女性にシフト完了。残る課題は性別適合手術と、各種制度の改正となっている。
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