ついに無花果(いちじく)と茗荷(みょうが)を買ってしまいました。無花果と茗荷は子どもの頃から庭にあるものでした。無花果はいつも祖父が採ってくれました。10年前までは山奥の家で、わたしも無花果と茗荷を作っていました。そんなこともあって無花果と茗荷には思い入れが強く、都会では買わずに過ごしていました。あの味を越えるものはもうないと思ってしまいます。
せっかく買って来た無花果と茗荷を娘が食べないので、がっかりしました。無花果は秋しか食べられへんで。茗荷も終わりやで。高かったんやでー・・・。わたしの声は届きません。
四人の子の中で娘だけが好き嫌いをします。小さい頃は何でも食べていたのですが。四人目は手抜きだったと反省しています。
その娘が、9月から中学校の給食を申し込みました。娘は初めての学校給食を体験しています。給食には、我が家にはないメニューがたくさんあり、娘は喜んでいるようです。「えーっ、お母さんの弁当、嫌なんか?」「そうやないけど、給食、食べてみたいんや」「給食申し込んで学校休んだら、もったいないなあ」「大丈夫、食べるし」・・・。でも、よく休む娘です。夏はお料理がたくさん出てくる韓国ドラマ『チャングムの誓い』を観て、「こんなん食べたいなあ。ビビンバってどんなんかなあ」などと言っていた娘です。わたしが「そしたら韓国に行こう」と誘ってもなかなか動かなかったのに、給食に目をつけたようです。給食にはビビンバも出てきます。給食デビューも勉強のうちでしょう。
食の安全が脅かされている時、娘ともその話をしました。学校給食を安心して食べさせられない京都市や日本の社会がおかしい。
ヘルパーをしているといろんな食生活を見てしまいます。障害を持った幼児に、お父さんが用意した冷凍のミートボールとご飯、それだけの夕食を何ヶ月も食べさせたこともありました。その家には野菜がありませんでした。一方、食にこだわるお宅では世界中から上等な食材を取り寄せていました。お水も外国産でした。
勤務する保育所は国産の安全な食材を購入しています。このところ所長が手を傷めたのでわたしが調理を代行しています。このごろの子は偏食と小食が多く、試行錯誤の連続です。先日は車麩が食べられない子、続出でした。するといつもの先生が「世の中には食べられへん子もたくさんいるんよ。食べられる時にしっかり食べとかなあかんよ」と言っていました。
長男は、保育園の頃から友達や近所の家に上がりこんではご飯をご馳走になってくる子でした。また、友達をよく連れてきては一緒にご飯を食べていました。何でも良く食べる長男が中学生のとき、「お母さんの弁当は煮物ばっかりやんか。こんな弁当、ぼくだけやで。普通のおかず作ってや」と言って、弁当を拒否したことがありました。
その長男が、今では我が家のお番菜を鍋ごとたいらげるようになりました。「お母さん、きんぴら作ってや」と言ってきたりします。面白いものです。娘も今はハンバーガーやコンビニのお菓子を食べていますが、また変わってくるでしょう。
わたしが高校生の頃は、母親の作った弁当は男子生徒にとられ、わたしはコーラと菓子パンでした。 |
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筆者紹介 |
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渡辺 加代子
1955年、千葉県生まれ。ホームヘルパー。 25、23、19、13歳(2006年12月現在)の4人の子ども母親、上3人は男の子。2005年には長男に孫が誕生。
長男は19歳で結婚、15歳から海外生活が多く、アフリカでサッカーのプロ選手だったこともあり、現在、BMX自転車のプロ競技者。二男あふるさんは、丹波養護学校卒業後京都市内のパン屋で働く。絵描きとしてのデビューは2003年3月。三男は日本将棋連盟のプロ棋士養成所である奨励会の会員。5才のときから保育園に通えなくなり、小中高と不登校。フリースクールにたまに顔を出す。長女は小学校を4日間だけ体験。引きこもりにしては穏やかにすごす。2006年、中学一年生で突然学校に通い始めた。
「三人の子と年1回の海外旅行を楽しむことを目標にしているが、3回しか行けていない」と嘆きつつ、「 三男の暴れがすごかったので、いろんなことが転換してしまった。つらい体験だったけど、やり直しができてよかった。おかしな子ばかりで、まだ子育ての現役を痛感させられる」と屈託なく微笑む不思議な人。
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