過ぎ逝く時をかぞえながら
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☆08/01更新☆

第68回 「藤原治(はる)という高校教師がいて」

 すでに書いたことだが、高橋源一郎が雑誌の対談で(相手は内田樹であったと思う)、「人間の基本的な思想形成は高校時代に終わる」(筆者の記憶による記述で不正確だが)との意のことで合意していた。

 そのことが誰にも該当する公理のようなものかどうかは確かめようもないが、周りの友人たちの過去の経験や行動を聞いたら、あながち嘘だとはねつけてしまうことは出来ないことだと想えた。

 1968年、突然ぼくが通っていた高校の校長先生が退任した。

 全校生徒が講堂(体育館)に集められた。校長退任式の儀のためにであった。1968年4月8日のことであった。
 壇上から、藤原治(はる)校長が、どれだけの時間を使いスピーチをしたかの記憶は一切残されていない。
 そう、内容についての子細も記憶の及ばないところとなっている。ただ、二つの点だけは今も忘れてはいない。
 ひとつはアメリカの北ベトナム爆撃の中止を祝し、アメリカの北爆を激しく批判する話であったこと。
 もうひとつが、この安来高校に赴任して以来、楽しく教員生活が過ごせた、ということ、それら二点を先生は全生徒、そして臨席した全教員、全職員に向かい表明されていた。

 校長だから、ぼくは授業を直に受けることはなかったのだが、一度だけ授業を受けた記憶があるのが、なぜ?
 おそらく、外部(教育委員会、PTA、教職員組合など)の人たちへの模範授業などではなかったか。
 なにを講じたかは、まったく覚えていない。ひょっとしたら、この校長退任式のスピーチ内容を「特別授業」であったかのように、なにかの拍子でぼくの脳裏に記憶として刷り込まれてしまったのかも知れない。

 1974年5月。
 岩波新書で「ある高校教師の戦後史」(藤原治 青版 895)が出版された。いまも、ぼくの書棚にはこの本は散逸することなく並べられている。藤原治の快著、66歳のときの書き下ろしである。
 恩師などという存在ではないが、決して捨てられるような本ではない。何度かぼくは字面を追い、当時を回想した。

 あまり書いては来なかったが、ぼくは島根県安来市で生まれ、18歳までその町で育った。安来第一小学校、安来第一中学校、島根県立安来高校で学んだ。

 中学進学の時、何人かはとなり町の松江市にある島根大学附属中学に進学した。父親から、なにを思ってかは知らないが、神戸の灘中学への進学を勧められたが、そんな中学聞いたこともないし何の興味もなかったので、即座に拒絶。
 次いでに言うが、高校進学の時に米子東高校への越境進学を親は試みたようだが、失敗。
 そういう訳で、いわゆる進学校―松江北高校、松江南高校、米子東高校にも行くことなく、家から歩いて15分とかからない安来高校へと入学した。
 だからこそ、校長教師藤原治(はる)さんとの出会いもあり、いつか書きたいが北条先生(世界史担当)、吉田先生(地理担当 担任)、島田先生(英語)、大森先生(倫理・社会 「社研部」顧問)との出会いもあった。

 「結果、オーライ」なんて言葉があるが、安来高校で学べて本当に良かったと思う。

 「安来高校はよい学校だった。たぶん諸君が思っているよりもはるかによい学校だ。この先生たちと勉強し、自信をもって社会に立ってほしい。諸君はいままでよくやってくれたが、きびしく・高く・美しく≠ヘ本日をもってその旗を降ろす。新しい校長の下で、さらに新しい勉強にすすんでくれ。それでは元気でー」(藤原治、校長職退任式のあいさつの結句。ときに藤原60歳のスピーチ。「ある高校教師の戦後史」より引用)

 紹介した藤原治の本の最期に掲載してある「むすび」には以下の文章が綴られている。

 「安来高校はおもしろくやりがいがあった。一歩一歩やっていけば一歩ずつでき、そしてまたあらたな展望が見えてきてさらに進むという実感と、やりようではできるのだという経験を得たことは、わたしにはかけがいのないことであった。学校を退いたいまも自分の方向があるのを感じており、安来高校でいちばん学んだのはほかならぬわたし自身であったと思う」と記されてある。

 ぼくは、そんな高校で学んだ。
 既述の本には、藤原の教師生活のエピソードとして、先生たちが7,8人集まり教室で自主的にエンゲルスの「自然弁証法」を使い勉強会をしている現場に立ち会い「私も入れてくれ」と言ったなどの表現もある。
 校長職にありながら、というかあるがゆえにと言った方がいいかもしれないが、原水禁のデモの先頭に立っていたとも聴いた。
 大学は東京大学文学部国史学科。恩師は羽仁五郎。
 羽仁五郎がちょうど「日本資本主義発達史講座」に関わっていた時期に彼のもとで学んだと本に書いてあった。
 そんな校長の下だから、一人ひとりの教員も自由闊達に生徒に臨めたではないだろうか。

 高校の3年間、そんな校長の下で教科書より別の方法で深い学びをしたものだと、つくずく思わされている。

筆者紹介
細田一憲
大学入学のため、山陰の港がある小さな町から上洛。
大学卒業と同時に同志社大学生協に入職。
35歳のとき、精神疾患を罹病。疾患名躁うつ病。
以降、、坑精神病薬を服用しつつ仕事を続けた。
2010年に大学生協京都事業連合を退職。
40歳から文学活動を開始し、ペンネームで1990年詩集「ルナーティックな気分に囚われて」(文理閣)を出版。
又、個人詩誌「KAZU」を1992年に創刊するものの、創刊号のみで廃刊。
大学生協京都事業連合在職時に、生協の部内報「連帯」でエッセイ「ベスト・プラクシスを求めて」を30回にわたって連載、「プロナード・イン・ザ・レイン」という精神疾患を軸に据えた評論を50回にわたり連載した(未完)。
ペンネームで小説、エッセイを書きwebマガジンでも連載、発表している。自由律俳句の会にも所属。
40歳代中盤「We Are Not Aloneの会」を結成、精神障害者当事者活動を開始し、現在「ひまわりの会」「ともともの会」で精神障害者の当事者活動を継続。その他「京都中途障害者の会」を始め、様々の社会運動に関わっている。
「正常から少し離れた場所にいて―「精神障害」の患者学を問う」を2011年に「あいり出版」から出版した。
精神障害ピア・カウンセラーの立場も表明している。京都市西京区在住。
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