過ぎ逝く時をかぞえながら
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☆09/15更新☆

第35回 「酒場歩きの中で・・・」

 村上春樹が書いた小説の中に、「再び、ドーナッツ」という短い作品がある。
 そこには、主人公の大学教授が教え子の女子大生とバーで酒を酌み交わすシーンが描写されている。
 彼の飲む酒は「ウォッカ・トニック」。
僕が飲んだこともなく、名前も知らない酒。もっとも、知っている酒の名前なんか、ほんの少しだけ。わからなくて、当たり前なんだが。
 その小説の表現の滋味さを堪能していたら、その酒を飲みたくなって来た。僕は、麩屋町のバー「ルコック」に一人出かけた。
 以前、同じように唯川恵の小説(タイトルは忘れてしまったが)を読んでいる時に、女性の主人公がバーで「サイド・カー」というカクテルを楽しんでいる描写があり、なぜか無性に飲みたくなったことがある。
 いつもの習慣であるように、街を歩き時々行くバーの入口をくぐった。「サイド・カー」を注文し、飲んだ。僕には、全然美味しくなかった。
 店もバーテンダーの名前も覚えているが、紹介するのは悪いような気がするので省く。
 あるバーテンダーが言っていたが、使うお酒などの銘柄がどういうものかで、カクテルなどは、その味がまるっきり変わってくるらしい・・・きっと、そうなんだと思うし、それがバーテンダーの知識、腕のみせどころなのだろう。
 ところで、バー「ルコック」で飲んだ「ウォッカ・トニック」は実にうまかった。爽やかな味で何杯でも飲めそうな気がしたが、金もないので止めた。フードレポーターのようにその味についてうまく表現出来ず、味気なくて申し訳ないが。

 ずいぶんと前のこと、そう僕が学生の頃の話。もうすぐすると、大学も卒業という時期を迎えていた頃のエピソード。
 三条の木屋町通りを少し下がった場所に「ワイン・リバー」という名前のパブがあった(今はもうなく、その場所は違った著名な大衆居酒屋となっている。いつ店を閉めたかは知らない)。中学生でデビューし、高声が澄み切っていてとんでもなく歌もうまかった森昌子の「先生」が流行していた頃だった。
 
 僕は気の合う友人たちと連れ添って時々店をのぞいた。
 いくつものの円い大きなテーブルが立ち並んで結構のお客さんがいたような気がする。
 お金はなかったけど、僕らが所持していた少ないお金でも行けるぐらい安い店で、しかもオシャレで大人びた感覚を味わうには最適の店のように思えた。大人の世界を垣間見るような気分であった。外国の人たちもいたりしたが、友人が拙い英語で話しかけもしたりしたこともあった。
今は影を潜めてしまった「ジュークボックス」にお金を入れ、洋楽や吉田拓郎、フォーク・クルセダース、山口百恵などを聴いていたような気がする。
 店では、「ニューヨーク」というカクテルを好んで飲んだ。でも、一体、そんなカクテルの名前をどこで覚えたのだろうか、記憶はない。バーボンかウィスキーベースのものではなかったかとの記憶があるが確かなものではないし、もう30年以上にも渡り味わっていない。
ちなみにパブには「アイルランド・パブ」と「イングランド・パブ」の二つのスタイルがあるらしいが、「ワイン・リバー」はどれに属するスタイルだったのだろうか。
 他には四条河原町を上がったところのビルに地下にあった「アストリア」、三条大橋の東側の「ピッグ・ホイッスル」、錦通りの「アイリッシュパブ・フィールド」には何度か足を踏み入れたことがある。それぞれ素敵な店だった。

 酒、酒場についてのエッセイは多い。
 それらを系統的に読みすすめたということではないが、池澤夏樹の「女性バーテンダーのいる店は避けなさい」という意の文章に出会ったことがある。その理由は記してなかったが。僕はその警句を守れていないが・・・・・・。
 また別の作家が書いたものに、「行きつけの店を一軒ぐらいは持ちなさい」という提言をなんとなく覚えている。
 
 酒場に一人で行き始めたのは23歳の時。
 大学を卒業し、勤め始めたのと同時のことであった。
 当時、上京区の西陣銀座を入り、そのどんつきを右に折れ、最初の筋を左に進んだ古い町屋風の一軒屋が僕の住居であった。
 二階建ての一階部分の二部屋がそれで、陽がささず、昼でも電灯が必要とするような部屋だった。
 「ルーム・シェア」などという言葉がまだ流布していなかったような時代であったが、友人二人と住んでいた。破格の家賃であった。(まあ、そんなことどうでもいいことかもしれないが)
 その住居から歩いて1分の位置に、「素人料理 希夜」という店があり、よく通った。女将とは、きっと40歳は離れていたのではないか・・・確かめはしなかったが。
カウンターだけで、席数は5、6つしかなかった。常連相手の店であった。よく踊り子さんが来ていて、僕を相手に隣り合わせの席で酒を飲んでいた。彼女たちの生活、その「流れ旅」の実態など、全く知らなかった異世界を僕は興味深く聞いたものだ。踊り子さんは大変、フレンドリーに接してくれた。
 安くて、いい店だった。他にも近辺に酒で商売する店が何軒もあったが、詳しくは知らない。ただ、「素人料理 希夜」の斜かいにあった飲み屋(店名は失念)には何度か行った。ここも女将一人で商いをしていたが、僕を相手にした会話の中で彼女は競艇にいつも10万ぐらいのお金を持っていき、すべて使い切るということに、ある種の衝撃を受けた。なんでそんなに大金を注ぎ込むのかが理解できなかった(当時の僕の給料は4万と少し)
 「素人料理 希夜」では1品だけ酒の肴を注文し、日本酒を1〜2本を飲み、その足で近くの銭湯に漬かっていたことを、この文章を書いている内に思い出してきた。いい町だった。10年ぐらい前にその辺りを歩いたことがあるが、以前の雰囲気を残しつつ様変わりもしていた。当然、僕が住んでいた家の面影は残っていなかった。
 そこには1年ちょっとしか住んでいなかったし、間もなく職場が変わったこともあり、店からは足が遠のいた。
 その体験が病みつきになったというわけでもないだろうが、香里園に住んでいた頃には、駅前にあった居酒屋で、冷奴、納豆(その店では生タマゴがトッピングしてあった)などをあてに一人よく酒を飲んでいた。27歳頃の生活の一部である。
 その大衆酒場では、村田英雄のヒット曲「夫婦春秋」が、行く度に流れていた。

     1

 ついて来いとは 言わぬのに
 だまってあとから ついて来た
 俺が二十で お前が十九
 さげた手鍋の その中にゃ
 明日のめしさえ
 なかったなァ おまえ

  以下略

(詞 関沢新一 曲 市川昭介)

余談だが、この村田英雄の「夫婦春秋」の3番の歌詞に「胸突き八丁の道ばかり」があり、26歳の頃には、その意味がわからなかった、
でも今は意味もわかり、確かにそんなものではとの想いがある。

 立ち飲みのフロントランナー四条裏寺の「たつみ」のカウンターに初めて立ったのは30歳の時。祇園会館で映画を観たあと四条の路地裏を歩いて店を見つけ入った。今でも僕が愛し通い詰める店の一軒。
 「おひたし」は好物(日によって中身が変わる)。「納豆オムレツ」も注文するし、冬に訪れるときは絶対にカキフライをアテにすることが多い。
 書き出したら、止まらなくなった。今度誰かに趣味は?と聞かれたら、「一人飲み」とでも言おうか。最近は友人に連れて行かれた「レボルューション・ブックス」という本屋兼立ち飲みという店に時々行く。本好きの店主が迎えてくれる。

筆者紹介
細田一憲
大学入学のため、山陰の港がある小さな町から上洛。
大学卒業と同時に同志社大学生協に入職。
35歳のとき、精神疾患を罹病。疾患名躁うつ病。
以降、、坑精神病薬を服用しつつ仕事を続けた。
2010年に大学生協京都事業連合を退職。
40歳から文学活動を開始し、ペンネームで1990年詩集「ルナーティックな気分に囚われて」(文理閣)を出版。
又、個人詩誌「KAZU」を1992年に創刊するものの、創刊号のみで廃刊。
大学生協京都事業連合在職時に、生協の部内報「連帯」でエッセイ「ベスト・プラクシスを求めて」を30回にわたって連載、「プロナード・イン・ザ・レイン」という精神疾患を軸に据えた評論を50回にわたり連載した(未完)。
ペンネームで小説、エッセイを書きwebマガジンでも連載、発表している。自由律俳句の会にも所属。
40歳代中盤「We Are Not Aloneの会」を結成、精神障害者当事者活動を開始し、現在「ひまわりの会」「ともともの会」で精神障害者の当事者活動を継続。その他「京都中途障害者の会」を始め、様々の社会運動に関わっている。
「正常から少し離れた場所にいて―「精神障害」の患者学を問う」を2011年に「あいり出版」から出版した。
精神障害ピア・カウンセラーの立場も表明している。京都市西京区在住。
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