
市長選候補者の状況を伝える新聞(注1)
〈市長のイスを求めて〉
今回は、全体の様子が理解できるように概略を記してみたい。自治体政策を決定づける市長選挙の投票日は6月12日(土)、13日(日)の2日間である。投票日まで1ヶ月を切った段階の、選挙に関する新聞記事をまず見てみよう。
5月15日付である(注1)。
◆今日が論評できる最後の日である。ジョルジォ・グアザロッカ現市長(右派)が対談拒否のあと、TVは候補者2人を別々にインタビューして放送した。市長のイスを求めて多くの競いあい。市長と挑戦者セルジオ・コッフェラーチ(左派)。
――候補者名簿の紹介のため、コムーネで群集。13の政党名簿(最後は17政党の見込み)
で区分された非常にたくさんの、市長・市議会議員・地区議会議員の候補者たち。点呼する中庭に早朝から多数のつめかけ。市役所・マルベッティ宮殿のポストに向けて、全500人の名前が披瀝された。
◆有力候補者の2人
グアザロッカと文化=私たちは、文化予算を36%増加させた。しかしまだ貧弱だ。うまく行ってない。その全ては左派に抵抗された。
コッフェラーチとジャーナリスト=他の候補者との違いが鮮明になるように、ジャーナリストの仕事が有用であると信ずる。あなたちは、私が何に配慮しているかを語ることができよう。公平なやり方が、あなたちとの関係を良好に築く。
ボローニャの選挙で、最大の焦点が市長選挙であることは論を待たない。現市長は、行政運営がうまく行ってないという批判があることを承知していないのか、それは左派のせいだと、最初から一種泥仕合の感である。一方の挑戦者は、新聞が事実を公平に扱って市民が真実を理解できるようにと、その点を要望している。
当地では、ベニヤ板1枚分の大きさの宣伝用掲示板がある。選挙に限らず、様々な広報の役割を果たしている。そこには市長選挙用の掲示物が張られている。

グアザロッカ(現職・右派)、
ボローニャこそあなた・一緒に市政を継続しよう。

コッフェラーチ(左派)、
グアザロッカのボローニャから我々のボローニャへ。
〈2004年6月選挙の種類〉
投票日は6月12日(土)15時00分〜22時00分、6月13日(日) 7時00分〜22時00分の両日である。2日間といい、投票時間といい、日本でのそれとはやや趣を異にする。
選挙の種類も単純ではない。あるパンフレットには、「このように投票します」と丁寧に説明が書かれている。それにもとづいて、記してみよう(注2)。
色の違った4枚の投票用紙が配られる。
@最初は、ボローニャ市長、ボローニャ市議会の用紙。市長については、希望する候補者の属する政党名に×をつける。議員は1名名前を記す。
Aボローニャ県知事、ボローニャ県議会の用紙。県知事については、希望する候補者の属する政党名に×をつける。議員は政党及び印刷された名前に×をつける。
B地区議会は政党または、連合を組んでいる政党名(以下、連合政党)、及び1名名前を記すことができる。地区によっては連合の組み合わせが違う。
Cヨーロッパ議会は、連合政党名に×をつける。3名までの名前を記すことができる。
以上4枚の投票用紙、6種類の選挙が行われる。市長選挙は、得票が有効票に対して過半数に至らない時、2週間後に第2回選挙が行われる。
市長・県知事の任期は5年間で、2期10年まで再任可能である。ちなみにグアザロッカ・ボローニャ現市長は2期目への挑戦であり、現ボローニャ県知事はすでに2期目であり、新人同士の争いとなっている。
なお、今回全国的に行われるのはヨーロッパ議会選挙であり、自治体選挙はボローニャなど少数のようである。国政レベルの大統領選挙や国会議員選挙はもちろんない。しかし、2年後には大統領選挙が予定されている。
〈前回1999年の選挙結果〉
表-1 1999年ボローニャ市町選挙結果
第1回 |
投票数 |
有効票に対する% |
選挙権に対する% |
|
バルトリーニ(左派) |
117,371 |
46.6 |
34.8 |
|
グアザロッカ(右派) |
104,571 |
41.5 |
31.0 |
|
他の候補者 |
29,838 |
11.9 |
8.9 |
|
有効票 |
251,780 |
100.0 |
|
|
白票 |
6,702 |
|
|
|
無効票 |
7,334 |
|
|
|
棄権票 |
85,284 |
|
25.3 |
|
選挙権合計 |
337,064 |
### |
100.0 |
|
|
|
|
|
|
投票総数合計 |
265,816 |
### |
78.9 |
|
第2回 |
投票数 |
有効票に
対する% |
選挙権に対する% |
第2回−
第1回 |
バルトリーニ(左派) |
110,389 |
49.3 |
32.7 |
-6,982 |
グアザロッカ(右派) |
113,463 |
50.7 |
33.6 |
8,892 |
|
|
|
|
|
有効票 |
223,852 |
100.0 |
|
#### |
白票 |
1,603 |
|
|
|
無効票 |
2,387 |
|
|
|
棄権票 |
113,212 |
|
33.6 |
27,928 |
選挙権合計 |
337,064 |
|
100.0 |
|
|
|
|
|
|
投票総数合計 |
227,842 |
|
67.6 |
#### |
La Sconfitta Inattesa,il Mulino,pp.20.
◆市長選挙=左派は分裂、グアザロッカ氏が第2回投票で僅差当選
前回市長選挙のことはすでに、ボローニャ大学コルベッタ教授を始めおおくの方から総括がなされている(注3)。第1回投票で過半数獲得者がなく、第2回投票で左派が得票を落とし、右派が上積みをして逆転当選となっている。ここではとりあえず、結果の数字のみを記しておこう。
◆議員定数=与党が60%の議席・安定多数を確保
表-2 1999年ボローニャ市議会選挙結果
議会 |
投票数 |
% |
議席数 |
% |
Rif. comunista |
11,194 |
5.6 |
2 |
4.3 |
Due torri (DS) |
57,111 |
25.3 |
10 |
21.3 |
P pi |
3,859 |
1.7 |
|
|
Com.italiani |
8,810 |
3.9 |
1 |
2.1 |
I Democratici |
25,927 |
11.5 |
4 |
8.5 |
Sdi |
3,285 |
1.5 |
|
|
Verdi |
5,757 |
2.5 |
1 |
2.1 |
小計=連立 |
104,749 |
46.4 |
16 |
34.0 |
小計=中道左派 |
115,943 |
51.4 |
18 |
38.3 |
Forza Italia |
25,846 |
11.5 |
8 |
17.0 |
La tua Bologna |
35,072 |
15.6 |
11 |
23.4 |
All. Nazionale |
24,699 |
11.0 |
7 |
14.9 |
Governare Bol. |
6,724 |
3.0 |
2 |
4.3 |
小計=連立 |
92,341 |
41.1 |
28 |
59.6 |
Ms Fiamma tric. |
6,363 |
2.8 |
|
|
Salviamo Bologna |
4,008 |
1.8 |
|
|
Socialisti liberali |
2,289 |
1.0 |
|
|
Guazzaloca |
|
|
1 |
2.1 |
小計=中道右派 |
105,001 |
46.7 |
29 |
61.7 |
Lega Nord |
4,100 |
1.8 |
|
|
Mps |
287 |
0.1 |
|
|
小計=その他 |
4,387 |
1.9 |
|
|
合計 |
225,331 |
100 |
47 |
100 |
(出典)La Sconfitta Inattesa,il Mulino,pp.16,及びComune di Bologna, Annuario Statistico 2001,pp365より作成。
(注)1999年5月13日、投票率:78.9%。
総定数47名であり、市長は同時に1議席を確保する。残り46名のうち、与党が60%の議席を獲得する。おおむね以下のように議席が決定されているようである。
与党:市長+46議席の60%=1+27.6=29名
野党:46議席の40%=18.4=18名
このあと、各政党は得票率に応じた議席配分がなされる。実際の得票数と比較し、当然下記のような明らかな逆転がでてくる。
右派 第1党La tua Bologna 投票数35,072(15.6%)、11議席(23.4%)
左派 第1党Due torri(Ds) 投票数57,111(25.3%)、10議席(21.3%)
この制度の評価は皆さんの判断にお任せしたい。それにしても与党会派が60%の議席を得ることは、安定多数を確保し強力な実行力が付与されることになる。その意味では始めの新聞記事のグアザロッカ政権が、左派に抵抗されたとするのは少し注意してみる必要があろう。

教会の一角で市長選挙小集会

集会後プロ職人のふるまいで歓談
〈エミリアンモデルの政策的危機〉
こうした前回選挙の結果に至る背景は単純ではなく、どうもボローニャ社会とイタリアの政治状況をめぐる様々なことがらが幾重にも織りなし関連している模様である。
しかもこのことは、賞賛されてきたエミリアンモデルのあり方そのものにつながっていくものである。カペッキ教授をして、エミリアンモデルの政策的危機と言わしめ、エミリアンモデルの崩壊につながる一端である。
表−3 1945〜2004年歴代ボローニャ市長
市長名 |
在任期間 |
年月 |
ジュゼッペ・ドーザ |
(左派) |
1945.4.21〜1966.4.02 |
21年弱 |
グイド・ファンチ |
(左派) |
1966.4.02〜1970.7.22 |
4年 3ヶ月余 |
レナート・ザンゲリ |
(左派) |
1970.7.29〜1983.4.29 |
13年 9ヶ月 |
レンゾ・インベーニ |
(左派) |
1983.4.29〜1993.2.27 |
9年10ヶ月 |
ウォルター・ビターリ |
(左派) |
1993.2.27〜1999.6.27 |
6年 4ヶ月 |
ジョルジオ・クアザロッカ |
(右派) |
1999.6.27〜現職 |
5年 |
(出典):Comune di Bologna,Annuario Statistico 2001,pp365.
ここでは選挙に限ってその一部に触れておこう。
表−3は戦後の歴代ボローニャ市長の在任期間である。ウォルター・ビターリ市長は前任者を引継いだ残存期間とその後の5年間の2期を努め、1999年選挙では2期が限度のため立候補していない。
その彼の最初の任期中に全国的に制度が変わり、市長選挙は議会による間接選挙から、市民による直接選挙制へ移行する。このため2期目の市長は直接選挙によるものである。
後に述懐したウォルター・ビターリの発言を紹介してみよう(注4)。
◇市長の直接選挙は、役所を運営していく上で、市民の個別要求に応えていくことが、より重要なものとなっていった。しかし、バックアップするはずの政治的な、あるいは政治連合からの報告はなくなっていった。ある時私は、交通問題を市民と議論するために街で多くの集会を招集した。おそらく1期前までは必要なかったであろう。何故ならば、多くは政党のなかで話し合われたからだ。今日ボローニャの行政は、なんとただの5年前も無かった程完全に異なる状況である。政党の役割の大きな減少のなかで、逆に私は政党からは無視され、より沈んでいく変化をみた◇
またカペッキ教授は、ロベルト・マッチャンテッリの以下の分析を紹介している(注5)。
◇1999年の選挙の光景、すなわち98年の夏、Ds(左翼民主党)の感覚は、ヴィターリの姿勢を巡ってきしみを記録し始めた。(略)政党の動き、左派の内部に不和が始まった。そのことは、重要人物が99年選挙の候補者から排除され、政党の選択は、最後にコムーネ参事で、元州議会議員のシルビア・バルトリーニに行き当たった(筆者注:年齢も30歳半ば、女性)
◇その上で教授は、「できるだけ評価できる候補者は阻止され、出現した候補者は適切な候補者ではなかった」と述べている。
これらは、直接選挙制度の導入、政党・自治体行政・市民のあり方をめぐる出来事の記述であり、単なる選挙戦術上の分裂だけではなく、そこに至るイタリア政治と社会が抱えている重要な問題をはらんだ内容と言えよう。
つまり直接選挙制度の中で、ウォルター・ビターリ市長が市民奉仕の姿勢を貫き、一部例示されたようなことを取組もうとしたにも関わらず、そうしたことが疎んじられていく。
このことこそ、本来社会諸階層と市民をネットワークで結びつけてきた政党・行政が充分その役割を果たせず、エミリアンモデルの崩壊過程そのものであった。
経済の発展と社会・文化の発展を同調させ、エミリアンモデルと賞賛されてきたことの重大なほころびであった。
〈今回の選挙の意義〉
こうして今回2004年6月選挙は、ジョルジォ・グアザロッカ現市長(右派)に対し、左派は統一候補セルジオ・コッフェラーチ(左派)を擁している。
コッフェラーチは、イタリア最大の労働組合CGILの全国書記をやっていた人物である。すでに1年以上も前から候補者として決定され、活動している。書店でも「セルジオ・コッフェラーチの長い道のり」、「最後のリーダー、セルジオ・コッフェラーチの伝記」「ボローニャ、セルジオ・コッフェラーチの地区を巡る旅」などの本を目にした(注6)。
しかしどういう経過で、ボローニャ市長選の候補者に決まったのか私は知らない。
イタリアでは、都市共和国時代の郷土意識は強烈で半端ではない。そうしたなかで、あえて左派陣営が、ボローニャ人(ボロネ−ゼ)の現市長グアザロッカに対する対立候補として、ボローニャ人ではないローマで働いていたコッフェラーチを担ぎ出したのはなぜなのだろうか。
ボローニャの地方政治での勝利をもとに、2年後の大統領選挙や国会議員選挙への最大の前哨戦の位置づけとして全国的な展望を見すえているからなのか、それとも仮にも前回のような地方政治を疎んじる中央指令型の内容が依然として潜んでいるのか、わずかの滞在では不明である。
ともあれ、ボローニャ市長選挙の動向如何は各方面に重要な影響を及ぼすことになろう。
第1にボローニャ市民にとって、この5年間の右派政治の政策に対する評価をどのように下すかである。際限のない民営化路線を始めとする、右派政治を一層強化することになるのか。それとも左派政治の再興と新たな前進となるのかである。産業・文化・地方政治全体が協調しながら進めてきた「エミリアンモデル」をあらたに再構築できるかにつながっている。
第2に地方自治体行政の選挙でありながら、同時にベルルスコーニ政権に対する政治的審判を求める傾向を強めている。なぜならイタリアはイラク派兵に見られる戦争と平和の問題に直面している。また年金改革や雇用、中でも青年層の雇用問題は極めて深刻で、常勤ではない不安定労働が広範に広がっている。こうした事態に対し、市民がどのような答えを出すのかが注目されている。
そして第3に、2年後の国政選挙とその政策に与える影響の大きさである。現市長を後押しするベルルスコーニ首相は、すでに対立候補として予定されるプロ−ディ現EU委員長と激突している。そのプロ−ディはこのボローニャ大学・政界の出身者である。
このボローニャ市長選挙こそ、次のイタリアを左右する大きな分岐点に立っていることは間違いない。
(注1)la Repubblica BOLOGNA, Bologna Cronaca, Sabato 15 maggio 2004
(注2)12-13 giugno 2004 Elezioni amministrativo ed europee Democratici di Sinistra.
(注3)Gianfranco Baldini, Piergiorgio Corbetta e Salvatore Vassallo, La Sconfitta Inattesa, Come e perch la sinistra ha perso a Bologna, 2000.
(注4)Vittorio Capecchi, Aumento dei lavori atipici e crisi del メmodello emilianoモ, 2003, a cura di O.Marchisio, G.M.Pieri, Il Territorio Dei Soggetti, pp.25.
(注5)前掲書(注4)pp.23.
(注6)Luca Telese, La lunga marcia di Sergio Cofferati, 2003, Sperling & Kupfer Editori, .
Nunzia Penelope, Lユultimo leader, Biografia di Sergio Cofferati, 2002, Editori Riuniti.
Il Domani di Bologna, BOLOGNA! Il viaggio di Sergio Cofferati nei quartieri, 2003, ecc.