健ちゃんのズッコケ週記
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☆5/21更新☆

第53回 プロレタリアート情歌・女編 枝垂れ桜の木の下で(II)

フリーライター仲間の師角飛魚子と鍵仲夜子の、まるで神の啓示に取り憑かれたような「お金儲けをしたい」という欲望は衰えるどころか、日がたつにつれてますます燃えさかり、だんだん熱気を帯びたように膨れあがっていくのである。

いつもの高飛車なもの言いで飛魚子は「他人事と思わず、もっと真剣に考えてください」と迫ってくる。

「私、京都の女です。いいアイデアさえあれば、火の中、水の中にでも飛び込みます。なんでもしますから、アイデアください」。

夜子が、飛魚子のそれとは対照的に中学生のような甘い声でせがむ。20年前に離婚して以来2人の娘ともまったく会っていない僕はなんだか実の娘に小遣いを要求されたような心境になり、飛魚子と夜子の執拗な誘いに乗っていることに気づくのだった。

僕らは三条通から木屋町を下って、細い路地の奥にある居酒屋「川獺の巣」に頻繁に集まって、酒を胃袋に流し込んでは、あれやこれやとアイデアを巡らした。

50歳になったばかりの女将は「3人、仲がようおすなあ。なんや父娘みたい」などと冷やかした。酒を飲んだからといって、良案が浮かぶはずがない。いつも話が尽きると、仕事の愚痴を言い合い、10時に決まってお開きとなった。

その年の暮れ、かつて僕のかつての先輩記者で西宮に住む駒音貫太郎が「親戚の法要が真如堂近くのお寺であったので」と僕を訪ねてきた。

貫太郎は大阪府警詰め一筋に記者人生を送り、4年前に年金生活に入っているが、引退するにはまだ十分枯れておらず、世間の注目を浴びるような事件が起きるたびに、血が騒ぐ。

我慢しきれなくなり、その度に僕の携帯電話を鳴らしては、事件についてあれこれ推測し、一通りの推理を終えると、 「なあ、しがないライターなんてやめとき。俺と組んで仕事をして、もう一花咲かせようやないか」という決まり文句で締めるのだった。

といって、その仕事がどんなものか、一向に具体的に明かすことはない。彼なりの引退後を希望を持って生きていくための夢として自らに語っているのだと思っている。

僕はグルメ雑誌から注文を受けた「京都名門ホテルの厨房を盗み見る」というタイトルの記事を半ばで放り投げて、貫太郎を花見小路を下ったところに最近オープンしたばかりの中華料理屋に誘った。

およそ中華料理店には見えない洋風のインテリアで飾られた店内に入ると、案内に出てきた若いオーナーが一瞬立ちすくんだ。顔が硬直している。

貫太郎とこうした店に入ると、決まって店の人が同様な反応をする。だから、もう僕は慣れて、「またか」という感じだった。無理もない。60半ばにさしかかっているとはいえ、貫太郎の風貌はどう見てもヤクザそのものだったのである。

短く刈り上げた頭、黒いスーツ、花柄のシャツ、何よりも顔つきがヤクザ独特の雰囲気をつくっている。現役の察回りの頃からそうだった。今ははやらないが、当時はパンチパーマに先の極端にとがった白のエナメル靴、ときには額にそりをいれ、ヤクザスタイルの典型だった。

僕が地方支局から社会部に配属されて、大阪一の繁華街と暴力団事務所が多いことで知られる南署担当をしていて、管内で発生した暴力団組員射殺事件の現場で取材していたら、ヤクザが後ろから「おお、ご苦労」と肩をたたいた。

 「?」。僕にはヤクザの知り合いはいない。ギクッと一瞬怯えたものだ。貫太郎とのそれが初顔合わせだった。向こうは部会で新人として挨拶をした僕を知っている。僕は社会部の誰が誰であるか知らない。

 「おれ、駒音。3版があと10分で締め切りやから、お前、とりあえず本記を送ってくれんか、頼むで」。そう言って小さく笑った。するとヤクザ顔が崩れて、パンダのような優しい目が現れた。

その後も事件現場で何度もヤクザ姿に出会い、記事の送稿が終わると、必ず酒を飲みに誘った。僕は社会部で遊軍や裁判所担当などいろいろな部署を回っている間、貫太郎は持ち場を変わることなく、府警に詰めて、事件取材に明け暮れていた。ついに定年で社を去るまで、そのポストは変わることがなかった。

年金生活に入って間もないころ、僕は貫太郎に呼び出されて、近くのホテルのラウンジでお茶を飲んだ。

周囲には総会屋や手形屋、地面師とおぼしき目つきの鋭い男たちが情報を求めてたむろしていた。

髪の真っ白な初老の男が近かづいてきて、
「よお、駒ちゃん、久しぶり。お元気?」
「まあな。ところで、あんた、局次長になったゆうやんか。出世したなあ」

他紙の記者で、府警では長い間、貫太郎とライバル関係にあった。周囲の怪しげな人物を横目で見ながら、彼は貫太郎の耳元で声をひそめて言った。

「駒ちゃん、定年になっても、まだ事件を追ってるんか」。貫太郎は苦笑いをするばかりだった。

 いつもなら紹興酒をがぶりがぶりと喉に放り込むようにして飲み、「精力がつくから」といっては、大きなナマコのあんかけ姿煮にたくましく食らいつく貫太郎のはしが進まない。突然はしを置いて切り出した。

「俺、腸にガンが見つかった。手術によってはひょっとしたらひょっとする。だから、お前に約束した仕事の話、あきらめることにした」

僕が息をのんだまま、なにも言えない間に、貫太郎は話を続けた。

「仕事の具体的な内容、今話しとこう。これが軌道に乗ったら、金ががっぽり入ってくること、請け合いやぞ」

(続く)

筆者紹介
落合健二
“往年の社会部「花形記者」の僕は見る影もなく、うじうじしながら定年を迎えるのだった”と新聞社を2000年末で定年退職。取材者、書き手、企画者として多面的な仕事振りで名をあげた。“報道と人権”などの、取材現場を踏まえた講演にもフアンが多い。2001年9月からは週刊情報紙『あいあいAI京都』編集長、居を構える琵琶湖畔から京都市内に通うようになった。
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