葦(よし)の髄から
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☆9/10更新☆

第10回 アテネ五輪を考える
 どこに行っても、話題は五輪。テレビをつければ、アナウンサーの絶叫と「ニッポン」の大合唱ーー17日間にわたって激暑に見舞われた日本列島をさらに熱くしていたアテネ五輪が閉幕し、やっと初秋らしい静けさを取り戻した。 
 今回も政治談議はさて置いて、私なりの五輪考察をしてみた。
 
@プチ・ナショナリズム
 いまさら今日の日本を席巻しているナショナリズム現象を言い立てるのもなんだが、今回ほど日の丸が目立った五輪はなかったのではないか。

 その象徴が、水泳の女子800メートル自由形で金メダルを獲得した柴田亜衣選手が表彰台でいつの間にやら持ち込んだ日の丸の扇子をかざしたシーンである。

 過去に表彰台で自国の旗をかざした風景を目にしたことはあっただろうか。他のメダリストもおしなべて日の丸をふりかざして応援に応えていたし、もちろん観客席で日の丸を振る日本人の姿がいちだんと目立った。

 こんな光景は日本人に限らない。他の国々の人々も例外なく国旗を振ったり、体に巻きつけて喜びを表現していたのも今大会で、強く印象づけられた。
  
 21世紀という時代は国家を超克して、インターナショナリズムの色彩がより濃くなるはずであったのだが、この現象はいったいどういうことだろう。
  
 グローバル化が進行するにつれ、アメリカのように強国はいっそう支配的になり、自らの力を誇示し、ナショナリズムをふりかざす。一方、弱小な国は強国に抑えられつつも、ナショナリズムを強く鼓舞することでアイデンティティーを発露しようとする。それが21世紀初めてのオリンピックで噴出してのだろうか。
 
A感謝と謝罪
 メダルを獲得したり、入賞した選手の第一声は「感謝します」。感謝の対象は監督、コーチ、会社の同僚、チームメート、両親やきょうだい・・・。

 この点は外国選手と対照的だった。外国選手が「感謝」という言葉を使っているのをみることはまずない。彼らは自らの鍛錬を語り、力を大舞台で出し切ったことを誇っている。

 感謝も大切だが、力を尽くして戦ったアスリートとして戦い終えて、まず第一に語らねばならない言葉があるはずだ。
  
 期待されながら敗退した選手は一応に「期待をうらぎりお詫びしたい」と言う。決然として試合に臨んだのに、なぜ、お詫びしなければならないのか。たとえば柔道の井上康生選手。だれだって調子がわるかったり、体調が万全 でなかったりして敗れることはスポーツの世界ではままあることなのだが。
  
 ここで「お詫び」するところに日本選手の未成熟さをみる。
  
 噴飯ものはあるスポーツ紙で野球が銅メダルで終わったことに、「長嶋におわび」という見出しを取っていたことだ。ああ、このセンスーー。
 
Bスポーツ・ジャーナリズムの退廃
 民放が視聴率をかせぐために、お笑いタレントやスポーツ知識ゼロの女性アナウンサー・リポーターを起用するのはわからないわけではないが、NHK、民放ともまともにスポーツ解説ができる人物は皆無といえた。もちろん新聞でも、だが。
  
 たとえばトラック競技。

 欧米やアフリカ系の選手に比べて記録の面ではるかに劣り、体力的にも大いにハンディキャップがあることは一目で明らかなのに、日本のスポーツ・ジャーナリズムは「期待できます」「入賞の期待がかかっています」とあおる。

 競技中も、技術など高度な解説はなく、どうでも いい家族の話などに終始している。これではアスリートもたまったものではない。一番お粗末だったのが、アテネのスタジオで司会を務めた男のアナウンサーであろう。

 まるで幼稚な質問の繰り返し、そして情緒的な心理分析。リレーで銅メダルをとった4人の選手をスタジオに招いてのインタビューでは、あまりにばかばかしい質問に、北島選手がムッとしてにらみつけていたことを、この鈍感なアナウンサーは気づいていないのだ。
 
 唯一といってもよかったのは、女子マラソンの解説をした有森裕子だった。わかりやすく明快な技術解説と的確な心理分析で、マラソンのもつ奥深さを視聴者に意識させた。
  
 おそらく、おしなべて未熟でレベルの低い日本のスポーツ・ジャーナリズムをアスリートたちは内心軽蔑していることだろう。
筆者紹介
落合健二
元朝日新聞記者。朝日新聞労組で役員などを務める。自称「社会党左派」。琵琶湖岸に居を構え、土と格闘している。
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