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少年犯罪やいじめ自殺、幼児虐待する若い親から電車の中で化粧に余念のない非常識な女性まで、さらには大学生の学力低下もすべて教育のせいにされて、教育改革論議が盛んである。国民みんな教育を受けた経験があり、我が子の教育に関わった人も多いことから、教育論議に参加する資格は自分にもあるとばかりに百家争鳴、メディアに煽(あお)られてさらに加速する。気の毒なのは学校の先生たちで、専門職であったはずのプライドも踏みにじられて、精神的に落ち込んでいる方たちが多いと聞く。そうした教育不信の時代に乗じて、ここぞとばかりに登場したのが教育基本法を変えてしまうことで、このたくらみは今のところ見事に成功しているようである。
本書は、こうした喧燥(けんそう)に歯止めをかけ、教育というものはもっと冷静に対応されるべきだと主張したものである。やれ犯罪が若年化している、それは先生が悪い、親が悪い、テレビが悪い、社会が悪いからだと犯人探しをすることで、世の中がよくなるかのような風潮に対して、本当にそうなのかとより大きな立場から俯瞰(ふかん)してみせたものである。直接教育に関わっているものにとっても、また教育のあり方に関心を持つものにとっても、本書から教えられることは実に多い。
まず、今の教育は本当にダメなのかと問いかけて、著者は「教育の荒廃」という図式は報道によってつくられているものだと断言する。煽られた<危機>の原因は、教育に過剰な期待を寄せすぎていることにある。
以前は、進学したいのに経済的事情でできないといった教育の量的不足が問題だったが、今は質的不足が問題となり、それも「別のものに取り換えろ」というふうになってきた。「まだ不十分だ」というのなら分かるが、それぞれが描く教育の理想像と異なるからといって全否定していることが、今日の論議に見られる第一の問題点である。
第二に、冷戦体制がなくなるなかで、保守にも革新にも以前のような守るべき「領土」がなくなり、敵と味方が判然としなくなったことがさらに混乱に拍車をかけている。問題が起こっているのだから批判の中身がどうであれ、今の教育を批判することが正しいといった考えだ。
第三は、心理学者や精神科医、教育方法学者など<ミクロな問題>の専門家が、自分の考えに都合のよい事例を集めて自説を主張することによる。それはそれなりに説得力があるから引きずられやすいけれど、結局、大局的な視点を忘れることになっているのではないかというのである。
それではどうすべきなのかというと、ひとつは、「教育になしうること」の不完全性を了承すること、こうなってほしいと教育しても、その通りの成果が出ないのが教育の常なのだ。もうひとつは「教育を良くする」というのは、<理想=善>と<現実=悪>との単純な戦いではなく、それぞれのプラスとマイナスをどう評価しどう折り合いを付けるかを探ることだという認識を持つことだという。自分の行なった子育てを思い出せば、だれでもすぐにその通りだと気づくだろうに、テレビ画面を通してみると自分の体験を忘れた議論になってしまうのだろうと思う。
そもそも、今本当に教育がダメなのかというとそんなことはないと著者は言う。20歳代の凶悪犯罪は、1970年代にぐっと減って以後横ばいを続けている、窃盗で捕まった人の数は常に10歳代が多いけれど、20歳代になると激減する、ということは、十代で万引きした世代でも、二十代になるとほとんどまともになるということで、人はドンドン深みにはまっていくものでもないということだ。
問題を「教育基本法」のせいにするのにはもちろん無理がある。「教育基本法の理念が実現してしまった結果、教育問題が生じている」というレトリックと「教育基本法に欠けた点があるために問題が生じている」というレトリックは、相矛盾しているのに、「教育基本法」憎さに凝り固まった人たちはこの矛盾に気付かないで平気でいるのだ。若者たちはそれなりにうまく育っていると認識してことにあたっていっていいのではないかという著者である。
さいごは「戦争をどう教えるか」についてで、著者が本当に教えたいこととして示している二つのことが心に残る。ひとつは「よかれ、と考えて選択しているうちに、いつのまにか<悪>をなしている」という社会の複雑さを理解してほしいこと、「小さな幸せ」の追求が「大きな厄災」を生み出すという構造があるということであり、もう一つは、「戦争はよくない」という価値を現実のものにするためには、積極的に行動して平和を闘いとらねばならないということ、豊かさを捨てて平和を選ぶ為には、自分自身とも闘わないといけないかもしれないということだと記す。著者の、平和への真摯な思いと次世代への深い信頼を感じることができる結びだ。 |
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