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ハンセン病患者の強制隔離の推進者光田健輔に牛耳られた日本癩学会において、ひとり強制隔離に反対した医学者がいた。小笠原登だ。
かれは、三つの迷信があると言った。
ひとつは不治の病であるという迷信だ。たとえ後遺症は残るとしても、結核と比較しても治癒率は高いと自らの経験から判断した。もう一つの迷信は遺伝病であるということ、そしてもう一つは強烈な伝染病であるという迷信だと主張した。
「千有余年の間、何等予防施設を施すこともなく放置せられたにかかわらず今日尚未だ全国民悉(ことごと)くが癩によって犯されぬに至って居らぬ」のは、「伝染力が甚だ微弱である事を物語って居る」と言った。
こうした考えは、学会のボス光田健輔の逆鱗に触れた。1941年(昭和16年)第15回日本癩学会は小笠原学説を糾弾する会となり、とりまきの弟子たちによって、「その罪万死に値する」と登の主張する体質説の撤回を迫られたが、かれは自説を曲げなかった。
さて本書は、小笠原登とはどのような人物だったのかを、見知ったり研究した十数人が記したものだ。
1888年愛知県ののどかな村にある真宗大谷派の圓周寺に生まれた。祖父は江戸時代を生きた僧侶でかつ医師。かつてハンセン病者たちは神社や仏閣の周辺に起居することが多く、圓周寺にもこういった病者が多かったが、祖父は治療に従事する中で、ハンセン病が簡単に感染するものではないという信念を持っていたようである。
登は1915年京大医学部を卒業後、停年まで京都大学附属病院皮膚科特別研究室につとめた。
1931年、強制隔離を基本とする「癩予防法」が制定されたことにより、カルテに「癩」と記載すれば患者の強制収容が行われることになった。登は、隔離をせずに外来治療を続けるために、カルテに「ハンセン病」という記載を止め、「進行性皮膚炎」などの病名を記した。
1948年京大を退官して国立療養所豊橋病院に転勤。圓周寺に帰宅した週末には、家でも患者を診た。泊まりがけで来ている人には寺の一室を貸し与えもした。1957年から66年まで国立療養所奄美和光園に在職。1970年82歳で死去した。
登の考え方は仏教の教えと関連があった。健病不二(けんびょうふじ)という考え方である。すなわち、健康と病気は人間の生理現象の二つの側面であると考えた。
また、体質は遺伝的素因と環境素因によって決まるから、ハンセン病は決して遺伝病ではないけれど、素質の遺伝はあると言った。
そして、ハンセン病をなくすには国民一人ひとりが豊かに暮らせる社会をつくりあげる以外にないという論陣を張ったのだった。
1931年「癩予防法」が制定された時機に設立された大谷派光明会は、すっかり国の政策に取り込まれたものだった。
「光明会」の光明とはハンセン病患者の介護をしたという伝説をもつ光明皇后(聖武天皇の妻)を意味していて、この名称の名付けの親は光田健輔、今思えば恥ずかしいことに、その趣意書で声高らかに「癩予防の方法を講じ、我が国より癩を根絶することは人道上からいふも、国民保健上からいふも、又文明国の体面上からいふも、極めて切要なることであらねばならぬ」と宣言してしまったのだ。
同じ真宗大谷派であっても圓周寺の小笠原登との接点はもてなかった。大谷派のこの間の経緯は、恥ずべき汚点として残った。この本を出版したのも、宗教団体としての真摯な反省によるものだろうと思う。
写真の小笠原登は、いつも詰襟の学生服のボタンだけを取り替えたのではと思わせる質素な身なりをしている。
患者の目の前では消毒の手洗いを控え、スタッフにもそのように指導し、登院に際しては門衛にきちんと挨拶したと幾人かの患者がインタビューで語っている。
丁寧な診察は好評だったが、あまりに時間を取られおまけに養生についての自説を長々と話すものだから、養生の話になると皆逃げたというのがユーモラスだ。
当時の患者も、高邁な人柄に接するよりも、薬や注射を求めていたというのであろう。患者の目線に立った飾らない人柄が目に浮かぶようなエピソードである。
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『小笠原登 ハンセン病強制隔離に抗した生涯』 真宗ブックレットNo10(東本願寺)
玉光順正ほか
中公新書
発行 2003年11月
本体価格 500円+税
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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