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著者は神経内科が専門の医師だが、関心は中毒症から毒物に広がっていったようだ。本書は、生物兵器と化学兵器についてわかりやすく解説してくれる。
ユダヤ人の大量虐殺に用いられたチクロンBとはどういう毒物であったか、生物兵器の研究は七三一部隊以外にはだれも関心をもたなかったのか、オウムが用いたサリンやVXは大戦でも使われていたものなのか、生物・化学兵器がジュネーブ議定書に反してこれまで如何に「普通に」使われてきたかなど興味深いことを丁寧に教えてくれる。
1899年のハーグ宣言、1925年のジュネーブ議定書、1993年締結されて1997年に発効した化学兵器禁止条約(CWC)と世界は何度も国際条約で被害を防ごうと努めてきた。しかし、条約はその都度反故にされてきたし、米国議会は未だにCWCを拒否している。
化学兵器が一躍注目を浴びたのは第一次世界大戦だった。1915年ベルギーのイーブル市でドイツの塩素ガスによりフランス兵など5000名が死亡した。
翌1916年、フランス軍はさらに毒性の強いホスゲンを砲弾に詰めて報復した。塩素やホスゲンは肺剤に属し、肺水腫をきたして呼吸困難で死亡させる。
1917年、今度はドイツ軍がまったく新しいタイプの毒ガスであるイベリット(マスタードガス)を使用した。主として皮膚に発赤や水疱を引き起こす糜爛(びらん)剤といわれるものだ。第一次大戦での化学兵器による死傷者は130万人、このうち死者は10万人にのぼった。
第一次大戦後も、ホスゲンとイベリットはイタリアの手によってリビアで使用された(1923年〜31年)。
日本は1925年のジュネーブ議定書に調印せず、化学戦の準備を進め、1930年台湾霧社事件で初めて使用した(過去のこのコーナーに搗蒲g『抗日霧社事件の歴史』日本機関紙出版を紹介)。このときクロロアセトフェノンで644名が死亡した。
1933年陸軍習志野学校を創設、1937年満州チチハルに化学部隊(満州516部隊)をつくり本格的研究に乗り出す。1940年10月宜昌(ぎしょう)攻防戦でくしゃみ剤ジフェニルシアンアルシンと糜爛剤イベリットを使用した。
中国戦線における日本軍による化学兵器攻撃での死傷者数9万4000人以上、うち1万500人以上が死亡した。毒ガス戦の回数は2000回以上とされている。
1936年以降には、新しい化学兵器である神経剤タブン、サリン、ソマンがドイツで開発された。ソ連は、終戦で手に入れたドイツ工場をそっくりヴォルガ河畔に移して生産を開始した。
一方、トップレベルの化学者たちは米英に協力することになり、ドイツの化学兵器は戦後、両陣営に受け継がれることになった。「冷戦」関係には正義も人道もなかった。1950年代にはさらにV剤が発見され、VXは大規模に生産されることになった。
第二次大戦後も、エジプト軍によるイエメン侵攻(1963〜67)、ラオス-カンボジア紛争(1979-81)、ソ連のアフガニスタン侵攻(1979-89)、イラン-イラク戦争(1980-88)でイベリットが堂々と使われた。
生物兵器も同様に戦後も一貫して研究され続けている。1979年旧ソ連の工業都市スヴェルドロフスクの生物兵器研究所から炭疽菌が漏れ出し66人が死亡する事件があった。
また、七三一部隊が使用しはじめたボツリヌス菌毒素の生物兵器を、イラン、イラク、北朝鮮、シリアが持っているとアメリカが名指ししていることはよく知られている。
本書には、関連した社会的事件について記されたBOX@〜Fという文字通り囲みの著述があって、化学の話はどうもという人の興味も引く仕組みになっている。
1978年ロンドンで発生した「こうもり傘殺人事件」は、ソ連KGBの意を受けたブルガリア秘密警察が、傘に見せかけた銃にリシンを詰め込んで、反体制派作家マルコフを狙ったものだった。なお、リシンとはトウゴマ (唐胡麻)の種子から抽出した猛毒だという具合である。
それにしても、懲りない面々は、安上がりの残虐兵器にしがみついて離れることができず、過ちを繰り返してきた。国際監視も大切だが、やはりまず自国で許さないという決意を各国民が固めなければならないと思う。
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『生物兵器と化学兵器 種類・威力・防御法』
井上尚英 著
中公新書
発行 2003年12月
本体価格 800円+税
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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