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ある時代には「正義」として大手を振ってまかり通る誰も反対できない「原理」がある。
今で言えば、さしずめ「自然保護」がこれにあたるだろう。「自然保護に反する」といった主張は、まるで黄門様の印籠のように絶対的な力を発揮している。
しかし、言われていることには本当に科学的根拠があるのかと私も以前より疑問を抱いてきた。
こうした、問答無用の風潮はある種の危険をはらんでいるのではないか。ひとつの価値観の強制は、時局の思想として国策批判が許されなかった時代と共通するものがあるのではないか。
こんなことも考えていたから、本書の内容は強い味方に思われた。それに、こんな「やぶにらみ」なことを言うのは私を含めてヘソ曲がりに決まっていて、ヘソ曲がりはえてして少数者である分、深刻になりがちだが、この著者は違っている。
真実を語る者は必ず初めは少数者なのだと開き直り、むしろ多くの人を見下して自説を繰り広げているのが痛快だ。
「趣味は昆虫採集だ」というと、虫を採ることは良くないことだと思いこんでいる人は怪訝な顔をするが、「ハエを研究している」と嘘を言うとたいてい黙ってしまうといった調子で論を始める。
多くの人は、自然保護にはたいして関心はなく、そのことを隠蔽するために、原理主義者と共犯関係をつくっているのではないかと著者はいう。原理主義者とは、たとえば「自然保護」が世界で一番大切なことだと信じきっている人たちである。
原理主義者と違って多くの人は、自分が大きな損失をきたさないものについては、自然保護に賛成というパスポートで、自分の生活を再点検することもなく、快適な生活を手放さないでいるのではないか。
たとえば、「絶滅しかかっている昆虫を守れ」や「川や湖の魚を外来魚から守れ」と言っておけば、冷房や自動車を手放さないですむからだ。
同様のキャンペーンは、人間が快適な生活をする上で大した障害にならない範囲で声高に叫ばれているだけではないだろうか。だからその中身も大体いいかげんなものが多い。
1960年代後半から80年代にかけては、マスコミや学者は大氷河期がやってきて大変なことになると警告していたはずである。ところが1989年には同じ著者が『熱くなる地球』(ネスコ)という本を書いた。大氷河期が来るのか地球は温暖化するのか、いったいどっちが本当なのか、それともどちらもウソなのか。
科学が輝いていた20世紀半ば頃まで、科学の進歩は無条件に善であると信じられてきた。生活はどんどん便利になり天変地異は予測可能になり病気は克服できると信じられていた。
しかし、一月後の天気予報が当らないように、数十年先の地球の温度など分かるはずがないのだ。不確定要素が多すぎるからだ。その分からぬことを分かったものとして「原理」としてしまう風潮に著者は逆らいたいのだ。確かにそれは誰かの陰謀の可能性がある。
健康は無条件に善であるというのも実に恐るべきイデオロギーだと著者は言う。
基準値とは統計学的な平均的数値で、その人個人にとっていいかどうかとは別問題である。基準値を下げることで大量の病人を生み出すこともできる。好コントロール装置は人を管理すること自体が目的である。
禁煙キャンペーンも自動車の排気ガスの責任を隠蔽するためのスケープゴート作りのような気がしないでもないと。こうして、薬剤会社は儲かり、自動車産業も安泰となる。
ブラックバス絶滅作戦についても矛盾がいっぱいだ。外来種を一切拒否し固有生物相を守ろうという思想は、現在の固有生物相というものが、外来種を組み込みながら進化してきたということを無視していて矛盾だらけである。
結局、ナイーブな感情以外には論拠はないのであり、解決方法は分離するなどの共存の方法をとるしかないのだ。
科学者である著者は、今流行の「原理」が科学的でないことをわかりやすく説明してくれている。本書で言いたいのは、大声の原理主義者たちに飲み込まれない多角的なものの見方が大切だということだと思う。
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『やぶにらみ科学論』
池田清彦 著
未知谷
発行 2003年11月
本体価格 700円
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筆者紹介 |
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若田 泰
医師。京都民医連中央病院で病理を担当。近畿高等看護専門学校校長も務める。その書評は、関心領域の広さと本を読まなくてもその本の内容がよく分かると評判を取る。医師、医療の社会的責任についての発言も活発。飲めば飲むほど飲めるという酒豪でもある。 |
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