シカちゃんの徒然なるままに
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☆06/17更新☆
第22回 餃子工場で働く

 餃子工場内での僕の作業は衣類の洗濯でした。20畳から30畳程の広さの部屋にドラムの大きさが直径150cmくらいの洗濯機と、同じくらいの大きさの乾燥機、白衣をハンガーにかけて10mくらいを回転させて乾燥させる機械、などが置かれていました。人数はおばちゃん5名位と男性は私をいれて3名でした。
 
 夜明け間近に各店舗から、前日の売り上げからごみのようなものまでが工場に運ばれてきます。それを各部署の担当が処理をして夜に各店舗に収めます。さて、私たちクリーニング部の作業は、白衣、ズボン、ベスト、カッターシャツ、帽子、前掛けの洗濯およびアイロンかけで、その数一日平均1千枚。仕事は2部制ですので500枚ですね。
 
 各店舗から返ってきた枚数調べ、裏返しに脱いであるのを一枚一枚表返しする。ポケットの中の掃除をし、分離し、1回に300枚程度を洗う。それを乾燥機で乾燥させその日の内に各店舗の箱に戻し、夜には店舗に出荷です。
 
 私は最初の半年くらいはポケットの掃除や運びなどが仕事でしたが、その後は洗濯機、乾燥機、エ〜コンプレッサー重油の継ぎ足し等の作業を命じられるようになっていきました。そのうちに、それが私の作業と定着していき、洗濯機と乾燥機に追い回される事になりました。
 
 洗濯機も乾燥機も時間で動き、1回300枚程度の衣類を洗濯機に入れ、給水ボタンを押す。洗剤と苛性ソーダと漂白剤を混合し、それを入れてスタートします。40分後、洗濯、脱水が終わると、ドラム缶をちょっと小さくしたようなものでのりを炊き、それをバケツですくいあげ、投入するのですが、これが「きつい」。
 
 それが終わると洗濯機から熱を持っている洗濯物を乾燥機に移し変えます。パートのおばちゃん達は午前中にポケット掃除をし、午後からは洗濯が出来上がるんでそれをたたむ作業です。私は午後の一番はおばちゃん達のポケット掃除に一緒に入り、それが出来次第洗濯機を動かします。
 
 洗濯機や乾燥機が動いている間はポケット掃除、午後からはたたみやエプロンや帽子のアイロンがけ、機械の点検などが私の主な作業とされました。
 
 洗濯機と乾燥機が交互に1時間おきに呼び出されます。・・昼ご飯の時も・・一日に5回から6回機械を回しますから、1500枚から1800枚も洗いました。
 
 僕がこの部署の人達に可愛がられるようになったのは、その部署のおばちゃん達のボス的存在の一人の人に能力的に気に入られた事でした。よく動く、気転がきく、物事を良く知っている。そりゃそうでしょうね。地域のおばちゃん達よりは、社会の情勢や科学・歴史などなど勉強していたと思います。
 
 そのグループはおばちゃん5名と麺場の男性1人とで常に行動をされました。おばちゃん達は子供も手が離れた時期でしたから、仕事が終わるとよく「兄ちゃん帰り居酒屋に行くでー、ついてきーや」と声がかかりました。多ければ週に3度くらいスナック、居酒屋、お好み焼きと、僕もその頃にはお酒のあまり酔わなかったので、付き合いはできました。

 その頃、友愛会・京障連での私は休みが火曜日で土曜、日曜は出勤でしたので、活動への参加と言えば夜の役員会と事務局会議参加ぐらいでした。事務局長も仕事の関係でおろしてもらいました。
 
 仕事について1年ほど過ぎた頃です。和歌山県で選挙違反裁判があって大阪高等裁判所ですでに何回かの法廷が開かれていました。被告は、和歌山県御坊市に住む女性障害者で、言葉の話せない障害者がビラまきをしたことが違反にあたるたとの事でした。弁護側は新たな法廷での闘いを求めて、障害者の参加を模索していました。言語障害者、聴覚障害者らの参政権保障に法廷での闘いを絞っていました。私は大阪最高裁の法廷に立ちました。

 この経験は僕に取っては言葉の問題に対して又、言葉の障害の劣等感での最終的な乗り越えるための最終的な仕上げの場でもあったと思います。それまで室内で200名程度の参加者、四条河原町で宣伝カーの上などでのスピーチを経験していましたが、大阪高裁での証人喚問は一つの私の言葉の壁を乗り越えた時かも知れません。

 そんな、ある日、職場で私がコンプレッサーの点検を忘れた事を理由に、それまでの作業を奪われてしまいました。その頃、新たな健常者の男性が入った事もあり、上司も強気で出て来たんだと思いました。職場全体の人達からは上司は好かれていなかったんで、それに私もそんなにこたえてはいませんでした。
 
 そんな中で一人の女性、私より一つ年上でした。・・彼女は離婚を目に前に控えにやってきた人でした。

 筆者紹介
四方宣行
1952年、京都府綾部市生まれ。肢体障害者友愛会事務局長、京障連常任委員を務め、肢体障害者通所小規模授産施設「フレンドリーハウス」に通う。脳性麻痺による四肢の運動障害と言語障害をもち、「就学免除」の結果、教育をはじめて受けたのは13歳のとき、京都府舞鶴市の共済整肢学園の幼稚部だった。その後、京都府立向ヶ丘養護学校で寮内自治会、生徒会活動に参加、肢体障害者友愛会にも出会う。大阪の職業訓練校を経て装具の会社に就職、全障研向ヶ丘養護学校卒業生サークルにも参加。
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