「助け合いの会」から「創立20周年記念誌に、利用者の方からの文章も掲載したいので、書いていただけますか」と依頼された。永年に渡ってお世話になってきたので、私は即座に「書かせていただきます」と返事した。
しかし仕事に追われていた私は、ついついと先延ばしにしてしまっていた。
我が家に来られた担当の方が、連絡ノートに遠慮がちに督促のメモを書かれていたのを見ていた悠紀子は「私でもよければ、夫に代わって書かせてもらいます」とノートに原稿を書きはじめた。
記憶が残っていない悠紀子は、ヘルパーさんに、年数などいくつか事実の質問をしながらも、私が帰宅した時には、もう、書き上げていた。
私は「私が書くのもいいが、要介護者そのものが書いた物を載せるのもいいのではないか」と思い、本人の文章に一切手を加えず、パソコンに打つだけの作業をし、メールで送付した。
この原稿のご依頼をお受けしてから考えましたら、私ども夫婦が、皆様「暮らしの助け合いの会」の方々のお世話になり始めてから、10年近くの月日が経っていることが分かりました。
初めのうち、私は、会員の方が自宅に来ていただいている時にも、全く無表情であったり、突然目がすわって髪の毛をかきむしり出したり、というような奇異な行動をとって活動会員さんたちを驚かせたりしたそうです。
しかし、それも、次第々と少なくなってゆき、活動会員さんとの交流も、年齢が比較的近い(?)ということもあり、お話も合って、だんだんと楽しく過ごす時間が多くなってきました(時には「悩みの相談」を受けてくださるというようなこともありました)。
そこで、このような中途で記憶に障害をもってしまった私の一日の様子を大ざっぱに、お話してみようと思います。
朝、六時半ごろ起きます。夫は30分ほど近くを散歩に出かけます。この時間が彼にとっては、勤め先からも妻からも離れられ、思索できる唯一の時間帯なのでしょう。
そして私ども夫婦は朝ごはんに近く喫茶店の「モーニング・サービス」を利用することをならわしとしておりまして、散歩が終わった頃に携帯電話で家に居る私を呼び出します。
私は、まちがいないように、と気をつけながら10分たらずその店までの行程を、いつもの通り、団地の廊下を通りエレベーターに乗り、左右キョロキョロしながら喫茶店へまちがわないように「ああこっちや」と4、5才の子どもみたいに毎日歩いて行くのです。
すると、朝の元気なおねえさんの「いらっしゃい!」の声が迎えてくださいます。
私は「サンドイッチ・モーニング」彼は「トースト・モーニング」−おねえさんはちゃんと心得て下さっています。「はいはい」といつもの顔つき。まわりのお客さんも、決まった人たち、おだやかな朝が今日も始まります。
そうして朝食を終え、家に帰ると夫は仕事に、私は「助け合いの会の方」をお待ちしながら洗濯や食器洗いなどしています。
助け合いの会の方は、月、水、金の一周に3回来て下さり、ご一緒におそうじしたり、お洗濯したり、おしゃべりしたり、お買い物に行っていただくのについていったり、と。
はじめのうちは、正直な所、自分の障害が受け入れられず、ふくれて、ねころんでばかりいて、活動会員さんは、とても扱いにくかったと思います。でも、このごろ、ようやくにして、「しゃあないわ、なるようにしかならへんねんから」と思うようになり始め、すると皆さんと「明るくお付き合いしよう」という、前向きの気持ちが出てきたみたいです。
まだまだ前向きが横向きになり、うしろ向きになって、皆さまを手こづらせる日があるかと存じますが、障害を受けて知らぬまに9年目に入ってしまつた私、それは思い返すに、何よりも、どなたよりも、この「助け合いの会」の方々の「肉体的」「精神的」ご指導あってこそと、心から御礼申し上げる次第でございます。
どうぞ しばしば「腹の立つ 奴っちゃなあ」と思われるような言動をとってしまうことがありますれば、心からおわび申し上げ、末永くお付き合いくださいますことをお願い致します。
お忙しい中、皆様のご健康をお祈りいたします。
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