千代野ノート
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☆02/14更新☆

第166回 10年前の震災 そのB

 被災者同士、同じ境遇同士の集まりも頻繁に行なわれ始めた。とりわけ企業復興と神戸再生を市民レベルで考える集まりには、被災した本社社員は自宅や家族の避難などで余裕がなかったので、そうでない京都在住の私は意識的にその種の会合に参加した。そして京都の友人たちの知恵も借りた。
 
 そんな時、神戸在住の奄美大島出身者から「今度の『寅さんシリーズ』は奄美が舞台だ。
『寅さん』が神戸に来て我々を励ましてくれたらいいなァ…」の声が聞こえてきた。そのつぶやきはトントン拍子に共感の輪を広げた。

 そして今度の『寅さん』を観る全国の人々の入場料の一部を被災遺児に回す『寅さん基金』を山田洋次監督に提案したら…」との壮大で感動的な意見がまとまり、私も提案者の一人として「あしなが基金」のメンバーとの接触に動いた。数日後、ある酒席の場で私が描く『寅さん』シナリオがその場にバカ受けしたので、調子に乗って2〜3日後B4版10ページくらいに仕上げた。

 『寅さん』基金構想と、私の素人シナリオを山田洋次監督に直接届けるチャンスは意外に早く訪れた。京都のある婦人団体の講演会に監督が来るとの情報で主催者に頼みこみ、その控え室を訪れた。
 
 私の説明に監督は「なるほどネ…。基金は私から会社(松竹)の営業に言っときましょう。このメモ(シナリオ)は貴方が書かれたのですか…」と黒ぶちのメガネを上下しながら、シナリオと私を交互に見つめ返した監督の顔を今でも覚えている。
 
 それから数ヵ月後、『寅さん』基金は実現しなかったが、監督が当初の48作の構想を変更して、『寅さん』を神戸に来させる内容になった!との吉報が入った。
 
 48作の「紅の花」の最終シーン。『寅さん』が被災地・神戸に立った!
そこでの在日ハンマダンの踊り。実はこのシーン、私のシナリオに書いていた。
 
 今でもこのシーンを観るたび、監督と『寅さん』への感謝の涙が止まらない。そして、してやったり!と日本中で私一人がほくそ笑むのである。

(続く)
 筆者紹介
富田秀信
1996年春、妻の千代野さんは(当時49歳)、急激な不整脈による心臓発作で倒れていた。脳障害をきたし、何日か生死の境をさまよった。「奇跡的」に一命を取リとめたが、意識(記億)障害で失語、記憶の大半を失った。京都の東寺の前に住み、神戸の旅行会社に通う。数多くの市民グループの事務局長をつとめるが、その場に千代野さんの姿がよく見られるようになった。
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