過ぎ逝く時をかぞえながら
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☆06/01更新☆

第97回「シン君への思い。その3・完結篇」

 死に逝く人の思いなんて想像を絶するものとして僕には存在している。

 果たして、彼が自分の人生をどんな思いで振り返っていたか、不幸や悲憤感で満たされ思いっ切り悲愁に囚われていたのか?
 また、家族の十全な愛情やケアに支えられて安寧な心でいたかなんて、今更に知りようがないこと
 またそれを想像してもあまり意味のないことかも?
 というよりも、彼の終末期の「病魔との戦い」を侮辱するものではないかとの想いさえ浮かんでも来る。

 ただ、どうしても「悲境」にいたのではないか? と彼の人生の終末期の事を思ってしまう気持ちから逃れられないのも事実だ。

僕に対する「友愛感のようなモノ」を電話や食事又は喫茶店の場での会話からヒシヒシと感じながら彼と交流を深めていた
 彼も、心を許して僕に語りを続けていたのではないか。

ある日ことだった。
激しい口調で職場で受けた「ハランスメント」のアウトラインのようなものを僕に抗議するかのように訴えた。
(○○にこんなことされた)(○○はこんな人間だ)などに類する言葉やエピソードを、先日起こったことかのように僕に語った
 
「細田さん、僕の代わりに連載しているエッセイで『告発』してくださいよ。」
そして、その要望は止むことなく繰り返して僕に訴求された

 でも 結果として、僕はそれをしなかった。
彼の屈辱的な思いや悔しさを吐露することそのものは真剣に「不明な点」は問い質しながら聴き続ける事に徹した。
 彼は「ウツ状態」なので、結果としてピア・カウンセリングの形となった。

 カウンセリングの鉄則として積極的な提言・アドバイスは避けて、聴くことを重視することが肝要だと理解していた。
 だから、「それはこう考えるべきだ」とか「その問題はこう解決するべし」などの言葉は自制して発しなかった。
 彼には「迷路」から抜け出すためのすじみちの整理が出来て自発的な「解決力」が芽生えるようなカウンセリングを心がけた。

 途中から「人の非難」はあまり言わなくなって来たのでは?
 僕は意識的に仕事の話題は避けた。仕事は彼の「成功事例」に限り話題にした。その成功を一緒に喜んだ。また、彼一流の「趣味」の世界に遊ぶような会話を試行した。

 ああ いくらでも思い出して来る、彼との思い出を。
 紋切り型の結論となるが、友人として出来得る事はしたと思う。他人が見て、友人としてもっと彼を支えるべきであった、と指摘されたら仕方ない。
 一切の抗弁を排して、「力不足ですみませんでした」と答えようと思う。
 ただ、これだけは言える。
 彼は重篤な疾患に屈することなく生きた、生き抜いたと(完)。

筆者紹介
細田一憲
大学入学のため、山陰の港がある小さな町から上洛。
大学卒業と同時に同志社大学生協に入職。
35歳のとき、精神疾患を罹病。疾患名躁うつ病。
以降、坑精神病薬を服用しつつ仕事を続けた。
2010年に大学生協京都事業連合を退職。
40歳から文学活動を開始し、ペンネームで1990年詩集「ルナーティックな気分に囚われて」(文理閣)を出版。
又、個人詩誌「KAZU」を1992年に創刊するものの、創刊号のみで廃刊。
大学生協京都事業連合在職時に、生協の部内報「連帯」でエッセイ「ベスト・プラクシスを求めて」を30回にわたって連載、「プロナード・イン・ザ・レイン」という精神疾患を軸に据えた評論を50回にわたり連載した(未完)。
ペンネームで小説、エッセイを書きwebマガジンでも連載、発表している。自由律俳句の会にも所属。
40歳代中盤「We Are Not Aloneの会」を結成、精神障害者当事者活動を開始し、現在「ひまわりの会」「ともともの会」で精神障害者の当事者活動を継続。その他「京都中途障害者の会」を始め、様々の社会運動に関わっている。
「正常から少し離れた場所にいて―「精神障害」の患者学を問う」を2011年に「あいり出版」から出版した。
精神障害ピア・カウンセラーの立場も表明している。京都市西京区在住。
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