「蜜に酔った白い蜜蜂よ おまえはおれの中で羽音(うなり)をあげる
ゆっくりと渦巻く煙りのように 身をくねらせる
白い蜜蜂よ おまえはおれのそばにいないのに 羽音(うなり)はつづいている
おまえは ほっそりと声もなく 時間の中に生きつづけている」
(ネルーダ「蜜に酔った白い蜜蜂よ」“愛と革命の詩人 ネルーダ” 大島博光 国民文庫 大月書店 1974年)
言葉は人が考える道具であり、自分の世界を創造する過程で必要なものだ。
僕たちは言葉を相手に届けることで関係を結び合い、相互に人間として成長していく礎をつくり合う。同時に、理解し合う貴重な道具でもある。
そんな言葉に僕は限りない可能性と信頼を抱きながら人に対置し、それによって時には相手を励ましもするし誤解と対立を呼んだりもする。でも、言葉でしか生起する問題や矛盾を解決することが出来ないことを知っている。
想うのだが、音楽もある種の言葉かもしれない。
仲武子。JAZZ・ブルースピアニストが先日、逝きて還れぬ死出の旅へと向かった。「ピアノに生き、ピアノに死んだ」と言えば果たして陳腐だと言われるかもしれないが、人の前でピアノを弾くことが、彼女の大きな喜びであったと指摘しても大きな間違いはないであろう・・・・・・。
あなたはピアノを弾きながら、僕に希望の形を探すことを求めた
ピアノで僕の閉じ込められた固い悲しみを和らげた
ピアノで、いつも僕に試行を迫る音を届けていた
話し方は不器用だが 開放的な言葉で 僕を解してくれた
でも 永遠にサヨウナラ。
(細田一憲「お別れのために」2015/06/29)
未だ京阪電車が出町柳まで来ていなかった頃、1988年ジャズ喫茶「LUSH LIFE」は下鴨から出町柳に移転して来て、いくつかの樹木が植えられていた小さな公園の東隅にひっそりとした佇まいを匂わせている店をオープンさせた。
カウンターだけで椅子も10脚ほどしかない小さな店だが、マスターの哲っちゃんがプレイヤーのターンテーブルにそっと乗せるレコードから流れ出す音楽は抜群だった。僕は時を置かず店の虜となり常連となった。
「LUSH LIFE」に来る少なからぬジャズミュージシャンを知ったが、仲武子もその内の一人であった。いつしかどちらからともなく話すようになった。その時々に交わし合った言葉の確かな記憶は残っていない。
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河原町三条の朝日会館の南側の路地を入った場所にあるビルの地下。そこは、僕が時々行っていたジャズ喫茶「ZABO」という店だったが、時とともに閉店し後に「Sesamo」という無国籍料理を食べさせる店となった。「Sesamo」で僕が食事をしたのは二回限りで殆どカウンターのスツールに腰かけバーとして使い、バーボンウイスキーを飲んでいた。
仲武子はこの「Sesamo」で定期的に演奏していた。
ジャズの楽曲について有名なもの(つまりスタンダードナンバー)を除いて僕は多くは知らないが、彼女は「ジョージア・オン・マイ・マインド」「黒いオルフェ」「ハーレム・ブルース」などを演奏していた記憶が残っている。
彼女が30歳を少しばかり過ぎた頃で、僕は黒い色の服が良く似合う人だという印象のイメージがなぜか心から離れない。ついでに言ってしまいたいような衝動に襲われてしまうが、個性的で主張のはっきりとした若い女性は黒系の色彩の服を好んで着るような傾向があると思っているのは僕だけであろうか。
彼女は3ステージこなしていた。演奏の間にスツールに並んで座り、ウイスキーのグラスを傾けながらとりとめもない話に興じるのも僕の楽しみであった。でも、内容は一切覚えていない。
表現しにくい強いストレスにより精神科病院に入院してから若干の時間が経過していたが、僕は自分の進むべき方向を失ってしまい暗い闇の淵をどうしようもなく彷徨していた時だったが、真剣にというか正直にただ自分のことだけを語っていたのかもしれない。
僕は仲武子の正確な年令を知らない。きっと57か58歳ではないかと想っている。早すぎる永訣の別れである。
もう会えない、彼女のピアノが聴けないという状況に際して限りない淋しさを感じてしまう。
双極性障害T型の病状が高じての結果かと思えるが、彼女とのジョイント企画を僕は二回開催した。
最近の「ルナーティックな散歩道」でその表現を試みているが、一つは僕が45歳前後に企画した「JAZZ・ブルースと詩」。
そのステージで50歳半ばで亡くなったジャズピアニスト市川修と一緒に仲武子がピアノを連弾する楽しそうな表情と姿が今でもくっきりと眼に浮かんでくる。二人とも本当に楽しそうであった。
全盛期などという言葉がある。確かにスポーツ選手などには当てはまるかもしれないが、アーティストにとってはあまり意味を成さない言葉ではないか。年令を重ねて行けば当然円熟味が加わるとともに人間的な深みが重なり作品などに渋みなども醸し出されてくるものではないか。「港町十三番地」や「ひばりの佐渡情話」を歌う若い時の美空ひばりと、死の直前の「愛燦々と」、「川のながれのように」を歌う美空ひばりとどちらがいいかと聞かれたら、僕は迷うことなく「愛燦々と」を選ぶ。やはり、年と共に声質は変わり、概して美しさを失いものだが、表現力というものに拍車がかかり、人の心を打つものだ。
過日、木屋町の立誠シネマで観た「水の声を聞く」(山本政志監督)のラストで予想さえしなかったことだが、美空ひばりが歌う「愛燦々と」が流れてきた。僕はその歌を初めて聴いたかのように魅せられ目頭が熱くなった。
なにか違った所に行ってしまったような気がするが表現力はある意味、年を重ねることでその幅と深みを拡張させるということを言いたかったのである。
付言するが、最も偉大だと言われる女性ジャズボーカリストのビリー・ホリデイも最後に録音したレコードが一番だと言われたりもする。しつこいと言われるかもしれないが、人間の魅力だって同じではないか・・・・・・。
別に仲武子と二人で会って何かについて語り合った訳でもないが、もう会えないと思うと何か奇妙な喪失感が僕の周辺に現出する。
そうそう、もうひとつの企画がある。北山通りのあるホールで開催した僕の詩を朗読する会―その伴奏は彼女の即興演奏であった。上手いスローテンポのピアノ演奏で僕の詩をひきたててくれた。
最近、木屋町の「ブルーノート」で二回仲武子の演奏を聴いた。なぜか彼女は絡むように「私なんかに興味なんてないでしょう・・・・・・」と放言した。僕は返す適当な言葉を見失ったままに「そんなことないけど」と言ったが、「今まで色々聴かせてくれてありがとう」と返すべきであった、シャイで一途だった仲武子に。
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