梅浩先生のボローニャだより
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第5節 ああ、ボローニャよ!

〈憧れのボローニャ〉

  あなたは遠くからみると美しすぎた。

 あなたは気高すぎて、時には近寄りがたい存在とさえ思えていた。

 大戦中ドイツ軍との戦いに生命を賭して自力解放したレジスタンスの街。

 いまなおコムーネの壁に、精一杯よそ行きの顔をした写真で顕彰されている多くの犠牲者の碑。

 その崇高な、何ものにも変えがたい努力に、戦後人々は生きる術を託したという。

 中小産業界と、地方行政と、職人と、

 あなたの街に根づいた職人養成の技術学校と文化と、

 イタリア社会に不動の地位を占めるキリスト教会と政党が

 互いに手を携えて共同の努力をしたという。

 いつしか経済の発展と社会文化の発展をともに追い求める殉教者の姿であったと聞く。

 人は土地の名を冠し「エミリアン・モデル」とよんだ。

 人は、生きる術を託した政治を左派政治とよんだ。


〈限りない努力〉

 あなたは遠くからみると美しすぎた。

 私の物心ついたとき、子どもが育つにはと、

 幾重にも織りなしたサークルと文化をつくり上げていた。

 日本社会が激しく動いた成長期、

 日本の人々は故郷を離れ、大都会の渦に巻き込まれ大きく動いていた。

 その後、もうすっかり心は疲れ切っていた。

 その時あなたは、子どもと若者を励まし、心と心をつなげる喜びに沸いていた。

 この街で育った喜びを語りあう往年の若者もあちこちでお喋りをしていた。

 街には、未来をつくり、心を温める装置がそろっていた。

「アルチ子ども組織」といい、「人民の家」といっていた。



 それだけではなかった。

 日本社会が何もかもブルドーザで壊している頃、

 あなたは決してこの街を壊そうとせず、

 辛抱強く化粧直しをしていた。

 古い街には安らぎがあった。

 古い街に、少しのお化粧で、人々は戻ってきた。

 無駄使いをしなくてもよかった。

 それを「保存的開発」といっていた。



 それだけではなかった。

 あなたの各地区で市民代表と市民が参加し、自主決定権を持つ「地区住民評議会」、

 イタリア中に先駆けて1964年に生まれたという。

 後に法律で全国に広がっていった。

写真1:再び始まったマッジョーレ広場の映画会、6月一杯は夕食後に開催。

写真2:マッジョーレ広場のネッツ−ン像。

写真3:タンゴのポスター、地域の集会場(人民の家)で踊りを楽しむ。


〈実像と苦しみ〉

 そして、あなたに近づく機会が巡ってきた。

 あなたに近づいたとき、しかしあなたはなぜかよそよそしかった。

 あなたの足元で、あなたの街をじっと見つめてきた人たちは、

 あなたのかつての美しさが今は保たれていないという。

 あなたの街に悪夢が取りついていると言う。



 確かに規模は小さくとも、あなたの街には、

 技術で世界を制覇している産業があるという。

 中小の企業が独立した位置をしめ、

 結びついたネットワークでものづくりに励むという「創造都市」。



 しかしそれなのに、なぜ人々はあなたを嫌い、あなたの街から逃げ出してゆくのか。

 なぜ人々はあなたの懐で、安心して生活の楽しみを送ることができないのか。

 かわいい次の世代を生み出す努力はもういやということになったのか。

 あなたの街の、父や母が苦労してきたことはもういやということなのか。

 あなたの街の苦しみを理解するには、私には難しすぎた。

 途方に暮れたときもあった。

 若者の言い分も、私にはなかなか分からなかった。



 なぜかつての人々の、こころをつなげる結いの努力で希望の道が見出せないのか。

 なぜこの街が少しの化粧で、家の外も中も綺麗な街にならないのか。

 豊かな社会のはずなのに、

 あなたの街は安心できないほど恐ろしく、そして警察官を増やすという。



 あなたに近づいて迷い込んでしまったと、とうとう後悔したときもあった。



 答えの見出せない逡巡する日の中に、あなたの街に、

 心やさしい人たちとの出会いがあった。

 その人たちと向き合うとき、あなたの苦しみが少しずつわかりかけてきた。

 あなたの街の産業を担いヨーロッパ中を駆け巡って来たひとたちよ。

 あなたの街で人々の落とすゴミ処理のため心をくだいているひとたちよ。

 移民の多い地区で人々の共存に苦労しているひとたちよ。

 新幹線工事に悩まされ、せっせと身を粉にして住民との橋渡しをしている人たちよ。

「90年代の私の街は」と、過ぎし日のことを懸命に教えてくれたひとたちよ。



 そればかりではなかった。

 縁あってあなたの街に住み着くことになった人たちの、そのひとの違いも見えてきた。

 北のオーストリア国境沿いの街から、南部カラブリアやシチリアの街から、トスカーナから。

 たくさんの地域からやって来た人たちとの出会いがあった。

 もうその人はあなたの街に3分の2もいるという。

 少し言葉も違えば、気性も違う。

 その人たちはボローニャとイタリアが、苦しみと希望の中にいることを教えてくれた。


〈歴史の前線〉

 あなたの苦しみがこの世紀の国際化のなかで、そしてEU拡大のなかで、

 もがいていることが分かってきた。

 あなたの街が、第3次産業分野への挑戦に苦労していることが分かってきた。

 だが挑戦する若者がいることに気づくと、とてつもなく嬉しくなっていた。



 そして2004年6月17日深夜のマッジョーレ広場。

 新市長を祝賀する5万人のことは忘れようにもそれはできない。

 それはこの5年間だけではなく、10数年もの長きにわたって乱れていた、

 街の人たちの心を再び一つにする、崇高な儀式の場であったように思えてくる。



 安心はできない。

 しかしその時、新市長は「市民参加」ということばを、何度言ったことか(注1)

 そのことがすっかりあなたの街で形骸化していたことも分かってきた。

 参加のシステムがあなたの街の絶え間ない活力の源泉であることがわかってきた。

 いまあなたは、しなやかに現実を生きていると思えてきた。

写真4:モデナ県カルピ市は繊維工業で有名だが、イタリアで数少ない強制収容所があったところ。

写真5:鉄柵で囲われた強制収容所の模型。



〈再会の約束〉

 あなたの街で知り合った友人たちよ。

 こころ通じ合う友人たちよ。

 かけがいの無いこの1年に出会った友人たちよ。

 私の成長の糧としていつまでもこころにとどめておこう。



 時には断定的に聞こえて馴染めなかったイタリア語の物言いの時もあった。

 可笑しい言い回しの時もあった。

 はにかみながら笑顔で応えてくる友人の姿に、なんと安らぐ思いをしたことか。

 とてもとても忘れることはできない。

 あなたの街の挑戦がある限り、私も繰り返し訪れることを約束しよう。

 あなたの街の友人に出会うため、再会の約束をしよう。



 同じように東洋の国、日本でも新たな挑戦が始まっていることだろう。

 参議院選挙翌日の“レプブリカ”は伝えていた(注2)

「東京、総理大臣の政党に懲罰。

 イラク派遣と改革の不成功を物語る。

 小泉首相は、しかし私は辞めない」と。



 また、あなたの街の市長選挙と、同時におこなわれたヨーロッパ議会選挙の余波は、

 いまなお激震が続いていることを伝えている。

 この国のイラク派遣と年金改革ノーの意思表示は、

 ベルルスコーニ政権の枠組みを崩壊させつつある。

 政治の方向を変えようとしているかに見える。



 いまあなたの街の産業と民主主義の成功如何は、

 間違いなく市民と、さらにはイタリア社会の明日に直接につながっているに違いない。

 あなたとあなたの街の市民が、いつまでも刷新への努力を続けていくことを祈りたい。


(注1)新市長は、“Partecipazioni dei Cittadini”の言葉を使用。

(注2)La Repubblica, Lunedi 12 luglio, 2004,18面。

◆お礼:1年にわたる本誌への掲載とご愛読に感謝申し上げます。このような機会が有ればこそ、苦労にもめげずやって来ることができたと思っています。これをもってとりあえずの区切りとさせていただきます。有難うございました。帰国直前のボローニャにて。
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