梅浩先生のボローニャだより
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第3節 シチリアの夏

〈焦げつく太陽〉

写真1:3つの尖端を持つシチリア、古来多くの異民族が侵入してきた。

◆シチリアに入る

 

 フライトは、いつものようにと言うべきか、1時間の出発遅延ののち深夜に近い時間に州都パレルモの空港に着いた。

 駅からホテルへのタクシーもよくある事とは言え、向きをそれて進んでいくようにみえた。地図を見ながら問いただすと、運転手は言い訳がましく説明し、程なくホテルについた。この日は、イタリア滞在最後の小旅行への参加である。

 時期的には僅かに早いバカンスの季節で、他の参加者は外国人ではなく、ほとんどイタリア中北部の人たちであった。年金生活者の夫婦や主婦、中には結婚生活10数年の夫婦や新婚旅行で参加していた人もいた。バス1台に、よそ者は日本人が1人であった。

 お互いに自己紹介し、私もボローニャから来たと告げた。ガイドはボロネ−ゼ(ボローニャ人)ね、といった。ある観光客は、「違う違う、国籍だよ」というと、みんなはどっと笑った。

 イタリア半島から切り離されて地中海に浮かぶ大きな島、シチリア(写真1)。7月初旬の数日間の気候は、ボローニャとはまた違った、焦げつく太陽のもとにあることを知らされた。温度計があるわけではない。しかし乾燥状態で、サウナの体験からすればはるかに40度は超えているかに感じた。

 島の東部に位置するエトナ山は3,323mの活火山である。そこを頂点に島全体が高原状、ないしは丘陵地のように広がっている。土壌は決して肥沃には見えない。放牧ないしは柑橘類を産し、海岸沿いは漁業に従事しているものかと思われる。

 エトナ山を管轄するカターニャ県庁の記録は、「2001年7月17日、18日に始まった噴火は、エトナ県内の道路92本に溶岩が押寄せた」と記している(注1)。「凶暴・恐怖・格闘・復興」と題した時代の証言集は、真っ赤な炎で焼き尽くす自然の厳しさとそこに生きる人々の格闘を伝えている。

 

〈シチリア特別州〉

  しかし、シチリアは自然の厳しさばかりではなかった。

 シチリアは、イタリア20州のなかでの5特別州の1つである。特別州が、他の一般州に比べてどの程度多くの権限が付与されているかは正確には理解していない。

 しかし例えば、ヴェネチアを州都とするベネト州の右隣のフリウリ・ヴェネチア・ジューリア州はオーストリアによる長期の他国支配という歴史問題があった。ことの是非は別にして、厳然としたオーストリアの言語・習慣・文化一切の継承がすでに存在していたのである。

 加えて旧ユーゴスロバキアとの国境問題である。身近に知り合ったこの州出身の人の話によれば、義務教育ではイタリア語とオーストリアの言語(ドイツ語)の履修が義務づけられているとのことである。バイリンガル(2ヶ国語)を母語とする教育が行われている。こうした決定権限を州に認めているのが、特別州である。

 ベネト州の左隣のトレンチーノ・アルト・アッジ州は、同じくオーストリアとの歴史問題を抱えている。またトリノを州都とするピエモント州の隣、フランス・スイス国境沿いにあるアオスタ渓谷州も特別州である。

 この北部3州に対し、島部としてシチリア州とサルデーニア州があり、計5州が特別州である。それぞれに歴史的事情を抱えた州である。

〈多くの民族が侵入し争奪の場に〉

 このシチリアの一部を旅した私の感想の第1は、限りなく多くの民族がシチリアの島を支配し、文明の痕跡を残していったことの思いである。

写真2:アグリジェント、ギリシアから来た人々の植民都市を起源(前5C)。
 
写真3:アグリジェントの神殿(前5C,後6C改築)。

写真4:アグリジェント、倒壊した数々の神殿跡。
 
写真5:セジェスタの神殿(後5C)。


◆民族の侵入と文明の痕跡

 シチリアが、古来多くの民族によって侵略と争奪の場になってきたであろうことはなんとなく理解はしていた。だがその何たるかは充分ではなかった。イタリア人相手のパック旅行でも、目の前に現れてくる文明の痕跡の情景には圧倒されるばかりであった。

 シチリアの限られた街の見学ではあっても、その多くにギリシア植民都市ないしはその影響を受けた神殿を、そしてその後のローマ時代の遺跡を数限りなく見ることができた。

 現地で手にした書物には、シチリアの歴史の概略が記されていた(注2)

 例えば、ギリシアの植民地時代よりはるか以前、少なくとも紀元前1万〜9千年にはアフリカからシチリア西南部の島に入った部族は石器文明の集落を作った。

 前13世紀にはシチリアの西部にイベリア半島から、東部にはイタリア半島から移民がはいった。前11世紀にはフェニキアの商人が、前8世紀にはギリシア人がやって来た。

 こうしてフェニキア、ギリシア、ローマ、北アフリカ、ノルマン、サウジ・アラビア、スペインと限りない民族が支配し、文明の痕跡を残して行った。

 その昔、国境や国家間の領域は明確では無かった。その時代に、ある民族がその地域に侵入することは極めて自然な行為であったのかも知れない。

 問題はそこに略奪と支配が結びつき、あるいは戦争行為によって支配権を獲得していったことが、歴史の現実であり、歴史の教訓として残されているのではなかろうか。

 このシチリアの歴史を見るとき、そこに先住民族が存在し、後に来る民族には限りない制約が伴うとはとても言えないように思えてきた。

 問題なのは民族間の共存であり、社会における富の分配の有りようではなかったのかと思える。

 それにしても、ギリシア植民都市の遺跡の数々は、この地に残した文明の大きさに驚くほかない。

「ギリシア人はティレニア海やイオニア海を統合するイタリア南部に一大植民地を作り出した(前8〜3世紀)。シチリアでは島の東部に次々とギリシア植民都市が建設されていった。(略)そしてこの都市が成長して人口が増加すると、その人口を収容する新都市の建設に取りかかった」というのである(注3)

 
写真6:シラクーサのギリシア劇場(前5C、後1〜5C改築)。

写真7:シラクーサのギリシア劇場で毎年開催されるギリシア劇、今年は5月14日から6月20日。

写真8:P・アルメリーナ、内陸の街。

写真9:P・アルメリーナ、ローマ時代浴室のモザイク装飾・体操する少女(後3〜4C)。

◆渡来民族が主役として存在

 島の南海岸中央にアグリジェントの街がある(写真2)。

 遠望する街には低中層の建物が並び、手前は赤茶けた土に木が植わっている。その赤茶けた土を少し延長すると、もうそこにはギリシア植民都市時代の神殿が2000年以上にわたって林立してきた姿がある。

 そして倒壊した数々の神殿の遺跡群が無造作にも投げ出されている(写真3、4)。現代と古代世界の同居は見事というほかない。

 そしてシチリアには以前に明らかに存在しなかった他国の文明の産物が、そこに主役として横たわっていることに、日本では想像がつかない感慨を覚えるのであった。

 もちろん日本でも幾重にも重なる歴史の積み重なりを見ることができよう。朝鮮半島から渡来した歴史をそこに見ることもできよう。しかしシチリアにおける場合の明らかな違いは、渡来民族の文明がそこに主役として存在していることの複雑さである。

 島の西部の街、セジェスタにはローマ時代の神殿がある(写真5)。

 この神殿が建設されるには、その前史においてシラクーサ軍との戦闘があり、やがてローマ等の国々による征服と破壊が行われる。その過程で建立されていった盛衰に思いを馳せずにはいられない。

 そのシラクーサは、島の東南端の要衝にあり、ギリシア植民都市のなかでもいち早く建設された。前480年にはカルタゴ軍の敗退に伴い、地中海世界の覇者となり、前474年にはイタリア半島の先住民族エトルリア人を破る。

 やがて前212年にはローマ軍に征服される。しかしローマ帝国の滅亡とともに、ビサンチン帝国領となる。その後もアラブ人、ノルマン人、サヴォイア家、オーストリア帝国、ブルボン家と支配者が変わっていく姿には、私には形容する言葉はない(注4)

◆今でもギリシアのなかで生活?

 シラクーサにはギリシア劇場が残されている。

 前5世紀に建造されたとする劇場は巨大であり、その階段状の石畳の椅子に座って見るギリシア劇が、いまでも毎年5〜6月に1ヶ月にわたって開催されているポスターをみた(写真6、7)。

 それは歴史のなかに生活するというより、ギリシアのなかで生活をしている思いを抱いた。つい先日のニュースには、サッカーのヨーロッパ選手権でギリシアが優勝し、国中が大変な喜びに沸いている姿を伝えていた。

 確かめてはいないが、このシチリアの多くの人たちもギリシアの末裔を信じ、喝采を送っていたのではないのかと信じても不自然さはなさそうである。

 内陸の街に、ピアッツア・アルメリーナがある(写真8)。街の東北部には火山エトナ山があり、その温泉水を利用したと思われる、ローマ時代の浴室があった。正式名称は「ローマの別荘(Villa Romana del Casale)」である。

 この別荘の浴室の恩恵に浴したのがどの範囲の人たちなのかはわからない。しかし、その浴槽面に描かれたモザイク装飾は、リアルで当時の時代を映し出す姿には驚嘆するほかない。

 写真9の体操する少女(前3〜4世紀)の姿が、2000数百年前のものとは想像できないほどである。目の前で現在のイタリア人が踊っているのとどれほどの違いがあろうと思わずにはいられない。

〈黙して語らない影はいまも〉

 感想の第2は、歴史の複雑さから生み出されてきた、黙して語らない影がいまもあるのではないかという思いである。つまりシチリアの歴史とマフィアの存在を背景とする行動様式のことである

写真10:黙して語らず?アグリジェント。

写真11:閉ざされた街、エリチェ。

写真12:エリチェの街の敷石。

写真13:閉ざされた窓、カターニャの街。


◆若干の予備知識

 シチリアに来る前の予備知識に、次のものがあった。

 1つは知人がこういうことを言っていた。

「コジロは外国人の観光客だ。自然や歴史を見て帰ってくればよい。何も問題は起こらない。しかし仮にシチリアのホテルに100ユーロ払ったとしよう。しかしホテルはそのうち3%はどこかに納める。それはマフィアだ。シチリア以外のイタリア人が行っても安全だ。観光客が来なくなるとマフィアも困るから」「3%なのか、10%なのか、誰も言わないから、もちろん正確にはわからないが」。

 こんな話が今どきあるのかと思った。

もう1つは、もう10数年も前に購入はしていたが、ようやく滞在中に読んだ内容である。

「シチリア・マフィアの世界(藤澤房俊)」である(注5)。一部を紹介してみよう。

・シチリアは、古代ローマ支配時代からの大土地所有制によって、その支配者階層の富と権力の根幹を形成した。大土地所有制という経済構造を抜きにしてはシチリアの歴史は語れない。

・マフィアをシチリアを源とする犯罪組織とする見方があるが、本来は、シチリアの過酷な風土・圧制の下で育まれた、名誉と沈黙を尊ぶ民衆の行動規範を意味する。しかし、マフィアは歴史的には支配者階級の側に立って民衆を抑圧する現象であった。

・マフィアは、19世紀に、シチリア西部のパレルモの小麦の耕作と牧畜がおこなわれた大土地所有地で誕生した。それは、国家による経済的・社会的発展をともなわない近代化がおこなわれたシチリアの社会で、さまざまな不平等な関係を保証するメカニズムに適合する形態であった。

・1861年イタリア王国の樹立によって、シチリアはブルボン王朝からサヴォイア王朝に替わった。この変化は、シチリア人にとっては歓迎すべき近代国家の創設を意味するのではなく、さまざまな特権の喪失と映った。統一国家に敵対する状況はまず農村部に作り出された。

・戦後、2つの改革がおこなわれた。特別自治州、土地所有制の廃止である。マフィアを生み、そして大きく発展させた土壌である大土地所有制が廃止されたけれども、マフィア自体は生き残った。その活動の場を農村から都市へと移し、都市マフィアと呼ばれる異質なものへと変貌していった。

 同書には、時々の警察・政府との癒着、ファシズム政権下での民衆への浸透、反ファッショ連合軍とマフィアとの連携などが記されている。少し以前の書であり、最近の姿は書かれてはいない。

 しかし、その内容はいまなお継続しているだろうことは容易に推測がつく

 

写真14:カターニャ、中央広場隣、強い陽射しの中で多くの市民。

写真15:カターニャ、色鮮やかな果物類。

写真16:カターニャ、海の幸も豊富。

写真17:カターニャ、咲き乱れる夾竹桃。


◆何故か少ない人影

 こうした残像を背に持ちながらシチリアを見るとき、私にはいまなお奇妙な光景ではないかと気づいた。ホテル近くや観光バスの行き来の途上で見る景色である。

 昼日中、アグリジェントの住宅地の窓は閉じられ、通行する人は殆んど見かけない。確かに車の行き来はある。しかし、外に出て木陰で涼む人影は見えない(写真10)。その光景はエリチェへと街を違えても同じように見えた(写真10,11)。

 私には、強い陽射しのせいだけでは無さそうな感じがした。写真13はカターニャの朝8時前後の光景である。よくどこにでも見かける朝の支度の慌ただしい景色は見えない。何故だろう?人々はどこに居るのであろう?

 それこそが、上記「シチリア・マフィアの世界」の著者のいう「警戒心と猜疑心による」シチリア人気質なのかと思わずにはいられなかった(注6)

 長く繰返された異民族支配と150年にわたるシチリアの歴史の中で生み出されたマフィアの存在、そのなかで育まれた行動様式を理解するのは想像を絶することだと思えた。

 その後ホテルを引き払いカターニャ中央広場近くへ出てみた。そこは同市屈指の露天市の並んでいるところである。ここはさすがに魚介類や野菜類販売に大声をかけている元気よい人たちと、それを買い求める大勢の客がいた。私には、その街の喧騒にようやく救われる思いがした。

◆帰路

 帰路は、エトナ山の麓、シチリア東部のカターニャ空港であった。再び、出発1時間半遅れ。いくら慣れても、遅れが日常化した非近代性には飽きてくる。

 焦げつく40度の気温、ギリシア植民都市カターニャ、日本人は誰もいないところでじっと待っていると、うっかり自分は帰れないのではないかとの錯覚さえ起きてくる。飛行機がようやく出発し、ボローニャ空港に着いた。

 1年住んだここに来ると、やれやれという感じである。


(注1)Biblioteca della Provincia Regionale di Catania, ETNA 2001, La furia, la paura, la lotta, la rinascita, 2002。

(注2)Giuliano Valdes, Arte e Storia・Sicilia-no3,芸術と歴史の島 シチリア,2002, Casa Editrice Bonechi, p.3〜9。

(注3)前掲書 Giuliano Valdes, p.3〜4。

(注4)前掲書 Giuliano Valdes, pp.92、Giuseppe di Givanni, アグリジェント 神殿の谷, 1979,参照。

(注5)藤澤房俊「シチリア・マフィアの世界」1988,中公新書, pp.5,帯,15,30,174-175,一部略して紹介。

(注6)前掲書 藤原房俊、p.5。


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