梅浩先生のボローニャだより
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第4節 ボローニャで学んだこと

 いまこの原稿をしたためているのが2004年6月末。昨年2003年7月1日、日本を出国して1年になる。あと残されたわずかの調査をして、日本へ帰ることになる。残り数回は「ボローニャだより」を書かせていただく予定だが、ボローニャで学んだことと題し、一定のまとめをしておきたい。

 言ってみれば私にとってはまだ旅の過程であり、日本の喧騒とあわただしさの中で、ボローニャを振返っても良さそうだが、むしろ揺れる旅のなかで書いておくのも良いのではないかと思われる。

2003年夏、ボローニャの塔から望む街の姿。
 
2003年秋、ボローニャ県庁から見る塔の風景(左は修復中)。

〈イタリアとボローニャ〉

◆ボローニャ滞在の1年

 私が、イタリアへの思いを最初に抱いたのは、20年近くも前の1980年代半ばであった。

 高度成長時代を社会とともに駆け抜けてきた私にとって流れる時間の違いは驚きそのものであった。アルチ・子ども組織(当時、会員130万人、1万3千のサークルが加盟する文化・子どもの統一組織)に見られた人々の心と心をつなぐネットワークと活動の姿に魅せられたものである。

 そして積み重ねられた歴史に、限りない再生の努力をする街づくりの美しさに驚嘆したものであった。

 日本にはイタリア中北部の街ボローニャがさまざまな形で紹介され、それに刺激を受けて学んできた。例えば、「レジスタンスの街」や「ボローニャ人民の家」、「地区住民評議会」であり、「歴史的市街地区の保存的開発」であり、「創造都市」であった。日本にとって参考とすべき可能性を秘めた都市として、憧れの街であった。

 その街で海外における始めての長期滞在、不安を抱えながらの研究生活を始めたのである。この1年はイタリアとボローニャ、そして日本にとっても、紛れもなく時代を画すべき重要な年であった。

 イラクをめぐる民衆と世界の政府・諸国民にとって、平和と国家の共存とは何かが問われ続けた1年であった。この課題は、いまなお重く続く。

 2004年6月のボローニャにおける市長選挙は、滞在を集約するに相応しいボローニャの抱える諸矛盾と発展を内包する到達点となった。


◆迷い込んだ街、そこからボローニャ理解を深める

 しかし、滞在早々の何年ぶりかという酷暑・乾燥とクーラーのない夏の2ヶ月間は、体調の上でも、精神的な面でも、私をどうにもこうにもさせない、狂った程の季節となった。そしてまた迎えた秋は、「ボローニャは都市の長期戦略を持っていない」(ボローニャ大学P・Corbetta教授、2003.10.28)、「ボローニャの地区住民評議会はいま機能していない」(ボローニャ県庁F・Andellini氏事務所、2003. 9.18)、「大都市圏計画は、計画はつくったが進展していない」(ボローニャ県庁G・Melloni氏、2003.9.30)という返答には、私は一体どうしてこの街に迷い込んだかと思わせるに充分だった。

 滞在早々にカペッキ教授が述べた「2004年6月ボローニャ市の選挙がある。誰が政権を握るかは政策実現にとって重要である。今の右派政権から次は左派が政権を握る。それに対する Battaglia(戦い)を挑む」(2003.7.8)という深い意味はまだつかみかねていた。

 自らを叱咤激励しつつ、過ぎ去った1年であった。周りには丁寧にイタリア理解を手助けしてくれるイタリア人がいた。そして支えてくれる在住の日本人がいた。こうした支えがあればこそ、私を生活に慣れさせ、ボローニャ理解を一歩ずつ深めさせていってくれることができた。

◆「エミリアン・モデルの崩壊」と刷新への努力

 やがて分かってきたことは、私がイタリアとボローニャを知って以来の20年は、まぎれもなく経済の発展と社会・文化の発展をともに考えていくエミリアン・モデルが単純にはそのように進んではいない歴史的現実に直面していることが理解できるようになったことである。

 カペッキ教授のいう「エミリアン・モデルの崩壊」の過程(注1)である。

 ボローニャの市民が第2次世界大戦中にドイツとのレジスタンスを戦い、その信頼の厚さのうえに戦後の産業、地方行政、労働、教育文化、時にはキリスト教会等の社会諸階層が一致して取組んできた姿が、やがて自壊現象を起こしていく時期を迎えていたのである。

 1989年、冷戦構造の終結は、さらにボローニャ政治と社会諸階層をつなぐ結いの心に激変をもたらしていった。

 その1つの頂点が、1999年のボローニャ市長選挙における右派政権の登場であった。

 それはボローニャ社会を支える基底部分の変貌を象徴する氷山の一角であったのかも知れない。こう見てくるとき、都市の長期戦略を持ち得ないボローニャの姿、消え去るかも知れなかった地区行政(地区住民評議会)の実情、1990年以来の大都市圏計画の策定と変更、名称も変わり数も少なくなったボローニャ人民の家、等々の変化の過程が理解できるようになっていった。

 ある時にはあまりにも理想化し、固定化して見てきたボローニャの姿。自明のことながらボローニャが刷新への努力を怠る時、美しい姿が崩れ去っていくことを、ボローニャは教えてくれた。

 本誌「WEBマガジン福祉広場」編集長は、先日〈編集だより〉で書いていた(注2)。「目的を達成するためには、その目的の切実性・合理性をくり返し鮮明にする作業が欠かせない。これを怠ると、目的自身が曖昧になり、目的を達するための手段が、いつの間にやら目的に取って代わるという倒錯が起こる」ボローニャの歴史に通じているように思えた。

 ボローニャの地区行政を担当していた右派政治家は言っていた(注3)

 「5年前の選挙は、右派が勝ったのではない。左派に投票しなくなったのだ」と。戦後の長い左派政権が続くなかで、左派がその政策に展望と精彩を欠き、市民奉仕の精神を欠いてきた結果、まさに左派に投票しなくなったものと思えてきた。

 それにしても1999年選挙の結果は、「ボローニャの人たちにとっては、選挙で敗退したというより、経済の発展と社会発展をともにする『エミリアン・モデル』そのものに、より深いところで傷をつけた」思いがあったのである(注4)

 この延長線上で、2004年6月市長選挙の姿をみると、そこに新しいボローニャが見えてきそうであった。

 
2004年冬、雪のマッジョーレ広場。

2004年春、花満開のボローニャ。

2004年夏、ボローニャの塔。

〈成熟都市ボローニャの実像と課題〉

 以下、現時点で記憶に残るボローニャの実像と課題の一部を記しておきたい。

◆成熟都市ボローニャ
 
 冒頭に記したように、高度成長時代をせかせかと駆け抜けてきた私にとって、流れる時間の違いは驚きそのものであった。そこにはあらためて人間の豊かさが問い直されている原点があるように思われた。

 長い歴史を積み重ねてきた都市、既に都市の拡大と膨張の時を終え、豊かさの中味が問われる時代に入った都市。私はこれを成熟都市と呼んでいる。

 しかしボローニャに住み、国民の生活の豊かさについて考えさせられてしまった。

 例えば、都市の安全問題である。この数年間の最大の政治課題は移民の流入とともに起きてきたボローニャの安全問題であった。

 犯罪の増加と路上生活者と物乞いの多さ、歴史的市街地区における夜間安全通行への恐怖感である。前グアザロッカ政権は5年前に「適正な鎮圧戦略でもって、短期間に犯罪問題を解決する」と断言し、警官の増員、テレビカメラの設置などを議会に提案した。

 しかし与党会派60%の議席であるにも関わらず合意が得られず、1年半後に担当参事を更迭せざるを得なかった(注5)。この問題をめぐり様々な議論がいまなお交わされている。

 また農場滞在型観光の小旅行であれば、自然の中でゆっくりした時間を暮らせばよい。しかしボローニャはイタリア有数の大都市である。都市生活に欠かせない諸条件が完備されているかどうかが問題である。

 保存的開発の代表的都市だとしたら、働き・生活する建築物の内部一般が何故にこうもメンテナンスが行き届いていないのであろうか。数百年前の外部空間の古さがそうさせるのか、万事に不具合この上ない。情報通信社会の成果がなぜ国民一般に享受できるようなシステムになっていないのであろう。

 イタリアに生活し誰しも感ずることだが、余りに言われることが少ない。決して過剰消費ではなく、いまどき最低限の電灯と暖房のある社会がなぜ実現できないだろうか、と思ってしまう。

 これまで見てきた環境問題や今日の先進技術も含めた人類の達成した努力がこの地に実現されていくのは何時なのだろうかと考えてしまう。

 私の成熟都市への期待は、安全で、生活諸条件が完備され、人々がネットワークで結ばれた安心できる社会である。こうした点で克服課題が残されていくことは確かである。


◆ボローニャの社会構成と人材育成

 インターネットで、日本女性1人当りの生涯出生児数が2003年1.29人となったニュースを見た。これに相当する最近値がイタリアでどうであるのか直ちには不明である。

 2001年値では、日本1.38, イタリア1.19であった。イタリアもさらに一段と低下していることが予想される。

 ボローニャについていえば、ボローニャの人口変化の特徴は、結婚・子育て、雇用・就労の2つの要因が相乗し、人口減少という大きな変化が起きていることを指摘してきた。

 ボローニャ市では、過去10年間に自然減、社会減も含めた1割を超える人口減少が起き、ここに外国人が参入し、人口減少を補っている。

 また、ボローニャで中小企業が集積し産業の担い手として大きく貢献してきたA・ヴァレリアーニなどの商工技術学校は、今でもそのウエイトは27%ではあるが、10年前に比べ学生数8,931人から4,359人へと49%までの半減、E・シラニなどの職業学校も同様に4,585人から2,545人へと56%に減少している実態を報告してきた。

 加えて今次の教育改革により、技術・職業学校は5年制から4年制の短縮した期間となり、大学進学は不可能となった。この地方で貴重な知的財産として貢献してきた学校の質的な変化を伴うものである。

 さらにはボローニャ大学と地域の産業界との連携は一部の大企業を除いては充分でなく、教育界と地元産業界との協力体制も大きな変容が予想される。

 つまりここにはボローニャ社会の存立と、産業を支える人材育成の面から少なからず異変が起き、かつまた移民問題が深刻に絡み合っている状況を見ることができる。

 ボローニャ県では2001年65歳以上人口は25%であり、高齢化社会は進行し、ここに昨年来政府の年金改革に同意できない国民の大きなうねりがあった。いまボローニャ社会で人々の生きるすべに関わる問題が大きく横たわっている。

1944年、空襲で崩れた旧ボローニャ大学本館、(注11)

1946年、ボローニャの塔「釜とハンマー」の紋章は当時の意気込みか(注11)


◆第3次産業化と国際化への対応

 ボローニャ県は、農工両全であり、かつ第3次産業化が進行していることを報告した。

 これだけでは当たり前のことかも知れない。実はエミリアン・モデルとして賞賛されてきたことがらの内容は、1960−70年代の工業化、すなわち第2次産業化の過程において、ボローニャの産業界と労働組合とそしてこれらを結ぶ左派政治が積極的な共同の努力によって実現してきたものであり、明白な見通しを持って事態に対処してきたのである。

 カペッキ教授は、これとの比較で特に1990年代以降の、販売・旅行・サービスなどの新しい構造を持つ第3次産業化への広範な流れに、左派政治は展望をもって対処することが出来なかったことを指摘している(注6)

 前市長グアザロッカは食肉の仕事から出発したエミリア地方の典型的な企業家であり、商業連盟の頭取として傘下の商人の意向を代弁することが出来た。

 こうした点では左派政治が、第3次産業化への対応をどのようにかじ取りしていくことができるのか、ここに今後の大きな課題が横たわっているものといえよう。

 また、ボローニャを含めたエミリア・ロマーニャ州は、国際化の中でベネト州との対比から海外進出をしないで、むしろ外国資本を積極的に呼びこむことを目標としてきた。

 そのことは一定目標を実現させつつも、他方現実にはEU拡大のもとで東ヨーロッパへの企業進出に大きな流れが起きていることも事実である。

 こうしたことから言えば、外国資本の活動条件の枠をどうおさえるかであり、さらには外国進出をする場合、当地の工場との役割分担をどう設定するかにかかっていると言えよう。

 この点では日本企業が中国進出において、賃金コストと市場を求め、あとに残された地域経済をないがしろにするきらいがあるのを見てきた。これに対しやや趣の違う手法には、学ぶべきことが多いと感じたのである(注7)

◆民主主義のあり方

 ボローニャ社会を理解する上で欠かすことの出来ないもの、言うまでもなく戦後の左派政治ないしは政党政治との関連である。またボローニャの地区議会(地区住民評議会)の到達点をどう理解するかである。

 滞在以来理解を深めてきたことは、次の点である。

・市民参加=地域における基礎的な市民参加の形態は、1960−70年代DC(当時、キリスト教民主党)の下部組織・教区への参加であり、PCI(当時、イタリア共産党)の下部組織への参加であった。やがてこれらへの参加も少なくなっていった(注8)

・市長の直接選挙=ボローニャ市を始め、直接公選市長は今回でわずか3回目の選挙にしか過ぎない。市政に関することでも、多くは政党の内部で話し合われてきた。

・地区議会(地区住民評議会)=議長のみ専任給与支給可能。委員会への市民参加可能。今次市長選挙結果によっては激変が予想された(注9)

 すでに記してきたボローニャ人民の家にしても、それは政党活動の一環としての人々の集会場であり、交流の場であった。現在では、名称も変わりより社会サービスの傾向を強めている。

 しかし、イタリアやボローニャでは一般に政党組織に峻別され、それぞれが活動している。日本でいう「市民組織」というイメージは、イタリアには存在することが少ないから、イタリア語にも訳すのが難しい。

 この結果どうなるかである。議会によって間接選挙によって選ばれてきた以前の市長は、自ずから選出母体の議会ひいては自党の政党組織に対して責任を負う形をとることになっていった。ここにすでに紹介した元市長ビターリの苦悩が理解できよう(注10)

 そして冷戦体制の崩壊の中で、旧来のPCI(当時、イタリア共産党)が大きく変わり、今回の市長選挙で紹介したように、数多くの政党が存在している。私には、つくづくボローニャの歴史を動かしてきた、戦後政治の動向を正確に見なければ、ボローニャ理解ができないと思えてきた。

 議会・地区議会・政党とともに、市民と団体各階層による民主主義の新たなプロセスをどのようにつくり上げていくか、今後にかかっているようである。
 

コンピュータ・グラフィック展示会、次のボローニャを担う若手の新たな挑戦。

元・教会で開催された展示会にて、筆者。


◆歴史の前線に立つボローニャ

 真夏を迎えたボローニャ。その夏草生い茂るレノ運河沿いを、私はジョギングする。1600年頃建設された運河の水はいまでも勢いよく流れる。

 そのボローニャが高度成長期に工業化の過程で周辺域へ人口と産業を放出してきた。1970年代初頭49万人、人口はいま37万人に減少している。

 戦後の政治と産業界をリードしてきた政治勢力は、いまようやく再結集をはかり新たな取組みを始めようとしている。そして第2次産業の発展と合わせて、第3次産業化への挑戦である。

 さらにまたボローニャにおける民主主義は、試練を経た代議制度によるものに加え、いま直接民主制によるシステムに挑戦を続けようとしている。これらの取組みの成功が、ボローニャ県下の広域自治体の建設と県下における地区行政の拡充強化につながっていくのであろう。

 同じく私が日本でジョギングする名古屋城周辺、これも1600年代初頭に城が築かれ、名古屋の街の原型が出来ていった。その名古屋で1970年代初頭公害問題深刻化の中で、周辺域へ工場を移転させ、工業都市から流通都市への転換が図られていった。ことの妥当性は問われ続けたのであるが。第3次産業化への取組みは容易ではなく、政治勢力で言えば保守勢力と革新勢力の交錯が続き、いまや保守勢力の独断場になっているかにみえる。

 この比較のなかで、ボローニャの政治勢力が隊列を整え、歴史の最前線に立つ瞬間に立ち会っていることが理解できた。2004年6月17日深夜マッジョーレ広場に集った新市長誕生を祝う5万人の人々のことはいつまでも記憶に残る。

 新市長が繰り返し訴えた「市民参加」。一人ひとりの市民の声を引き出し、政治の場に生かす参加のシステムづくり、地区行政の権限の強化を図る・・・。あの時の「無限」「熱気」「真剣」「確信」の姿に今後のボローニャの行く姿を期待したい。

 それが本当に成熟したボローニャが生まれ出ていくのかどうか、ひとえにボローニャ市民と関係者の絶えざる刷新の努力によるほかない。

 私にとってはいまボローニャ理解の第一歩に立っただけである。コッフェラーチ市長側のスローガンは「あなたはボローニャの今後の10年をいま選ぶ」であった。つまり5年任期の2期である。定点観測するに相応しい街であると、いま思っている。

 ボローニャが、そうした産業と民主主義の取組みの最前線にいることが理解できた。私が、ボローニャで学んだことの意味はそこにあったものと考える。


(注1)Vittorio Capecchi, AUMENTO DEI LAVORI ATIPICI E CRISI DEL《MODELLO EMILIANO》, in O.Marchisio, G.M.Depieri,IL TERRITORIO DEI SOGGETTI, 2003,pp.15〜53参照。

(注2)WEBマガジン福祉広場〈編集だより〉2004年6月21日。

(注3)Caselli Alberto(自由の極、国民同盟)、2000年3月15日。

(注4)前掲書IL TERRITORIO DEI SOGGETTI,pp.29-30.

(注5)前掲書IL TERRITORIO DEI SOGGETTI,pp.30-31.

(注6)第3次産業化との関連では、前掲書IL TERRITORIO DEI SOGGETTI,pp.27-28参照のこと。

(注7)職人・中小企業全国連盟(CNA)モデナ県協会のMaurizio Torreggiani、2003年11月17日。

(注8)Vittorio Capecchi 教授、2004年3月10日。

  (注9)ボローニャ市前参事、制度的事務・市議会地区行政等担当、Paolo Foschini、2004年3月10日。

(注10)前掲書IL TERRITORIO DEI SOGGETTI, pp.25.

(注11)Wille Osterman,Deja View Bologna,Italy,2002, 写真7はpp72, 写真6はpp88.


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