梅浩先生のボローニャだより
前のページへ戻る 次のページへ進む
第1節 生活の不思議なコントラスト

〈パスタ料理と食生活〉
◆1日の始まり
滞在以来、6時半頃には起きる。この<WEBマガジン・福祉広場>の原稿をはじめ、やるべきことが念頭にあるとなかなかのんびりとしておれないのが実情である。メールチェックや片づけを行い、2階から台所に降りる。

新しい宿の主人フランチェスコはすでに庭に出て、新鮮な空気を吸い、1日の生活が始まっている。場所は、サンルカの丘へ向けてポルチコ(屋根付アーケード)が走っているあたりである。

サンルカは、ボローニャを一望に見渡す丘であり、その頂上にはもちろん教会がある。そのポルチコの隣の道路脇を少し斜面にして家が建てられ、庭がある。

私を見かけると、待っていたかのように、「コジロ、調子はどう、カッフェ?」と言ってくる。「調子は上々。有難う。カッフェ頼む」。こうしてコーヒー2人分を用意し、朝食が始まる。

妻君のマリーナはいつも少し後から起きてくるので、2人である。朝食といっても、私はパンにジャムをつけ、牛乳を沸かして飲む。そして最後にコーヒーである。

彼の朝食は?朝はそのコーヒー1杯のみである。そう言えば前の下宿のおやじもそうだった。朝はコーヒー一杯が多い。

フランチェスコはダイエット中といっている。85Kgの体重を少しは落としたいようだ。上背があるので、私にはそれ程体重があるようには見えない。

その彼のコーヒーの飲み方は、私には可笑しく見える。小さいコーヒーカップのエスプレッソに、砂糖を小さじ3倍はきちんと入れる。「ダイエットではないのか?」と冷やかし加減にいうと、「いやこれは問題ない」何が問題ないのだろう。

ついでに言えば、食事の際は私が日本から持って来た麦茶で作った冷水なら、マリーナは水、かれはコカコーラを飲む。これも糖分が多かったのではないか。

「問題ない」こうした楽しい会話をしながら、1日が始まっていく。

◆料理のこと
フランチェスコはすでに年金生活者だし、マリーナも4月から3週間はエジプト人のホテル勤務者を相手にしたイタリア語講座のコーディネータとして仕事をしていた。しばらくは家にいるようだ。このため3人そろって食べることがある。

食事の支度は順番に廻す感じである。当然パスタ料理が多い。それに加え、昨日はマリーナがウサギの肉を時間かけて煮て、それを食べた。

限られたイタリア生活であるが、身近にみたイタリア人の食生活を少しだけ書いておこう。

ただし前置きを1つ。私は、ほとんど料理のことを書いてこなかった。理由は簡単でである。書けないからである。食事は出されるものは何でも美味しく食べるし、特別な好き嫌いもない。しかしうん蓄を傾けるほどの知識はないし、味付けはこのようにしてなんて何もない。

だが共働きと子育てのなかで、有無もなく台所につきあってきたのは確かである。だから下宿住まいで、自分1人で食べる分には、栄養のバランスさえ考えてやっていけばよいのでそれほど苦痛ではない。

しかし「イタリア料理は・・・」なんて書けたものではない。従って、誤解を恐れずあくまでも私の感じたことである。

こちらに来て、家庭の料理で感じたこと。それは、あくまでもパスタ料理が中心であり、時々肉類だと思った。そして生野菜は食べるが、日本でのような野菜や根菜類の煮物はまずない。

また魚などを直接に焼いて食するのもほとんど見かけない。あったとしてもフライパンにオリーブを引いて焼くのである。

スパゲティとその仲間
スパゲティとその仲間。

プロッシュート、モルタデッラ(四角)、モッツアレッラ(白く丸い)など
プロッシュート、モルタデッラ(四角)、
モッツアレッラ(白く丸い)など。

◆パスタ
まずパスタである。

ある時日常生活の師であるフランチェスコが、写真1を見ながら説明してくれた。「ここに書いてあるのは、『スパゲティとその仲間』だ。形はいろいろあるが、素材は一緒だ。形や大きさが違うだけだ。形や大きさが違うと、ゆで加減は少しずつ違うが大体は同じだ。真ん中のスパゲティ(spagetti)はナポリのものだ。一番下のラザーニャ(Lasagne)がボローニャだ。だいたいスパゲティが60%、その他全部で40%の消費量だろう。スパゲティなどは小麦粉・塩・水で練って作ったものだ」

そしてこうも付け加えた。「最近は少し違うかもしれないが、歴史的にはこうだ。南部は貧しくパスタには卵は入ってない。北部は豊かでパスタそのものにも卵が入っている」

食生活の基本はパスタだ。そのパスタに、南北格差が忍び込んでいるとは思いもよらなかった。

なるほど地域毎に違うのか、でもここには、ボローニャ名物のトルテリーニ(Tortellini)は書かれていないのではないか、と尋ねた。

「トルテリーニは小麦粉に少しの卵・バター・オリーブなどを入れて練り、これに肉やチーズ・卵を混ぜて詰めたものだ。北部は豊かだからこれができた。従ってこの写真とは別物となり、栄養的には重いパスタになる」

トルテリーニも北部の豊かさの象徴、成るほどと相づちを打ちながら聞いた。

パスタ料理の味付けは、いろいろと工夫される。確かに美味しい。しかしそこには具を余り入れない。日本でもちろん簡素な料理はいくらでもある。しかし、同じ野菜でも、いろんな種類が入っていることが多い。中華料理でもそうである。私はそれが好きだ。

それに比べ確かにパスタそのものは、大小・形を取り合わせてさまざまある。それに比べれば、具が少ないため、私にはどうしても簡素にみえる。誰かから、「具を入れるなんて、そんなの邪道だよ」と言われそうであるが。

ボローニャは、食の街と言われる。しかしこの家でも子どもは大きくなり、別の家に住んでいる。言ってみれば夫婦のみの気軽な生活であるにしても、日本で私が考えるような豪華さとは少し違うようだ。それが日常の食生活かも知れない。

だいぶん長く住んだ以前の下宿では、例えばクリスマスで今日は一緒に食事するというので、期待もする。用意したのはいつものパスタ料理とワインであり、ローソクの明かりで祝う。豪華でなくとも、時には丹精こめて作った料理でおしゃべりを楽しむ。

しかし、どうもそのようにはならなかった。前の下宿の主人は南部カラブリアの出身である。ボローニャでいえば、こうした非ボローニャ出身者がすでに3分の2近くになり、ボローニャ出身者は3分の1を少し超えるまでに下がっている。従って、ボローニャの文化的特質も異なってこようかと思われた。

◆肉とチーズ
次に、肉の種類の豊富さは日本とは違うなと思った。

日本では、一般にブタ・牛・鶏・馬・羊などである。しかしこちらに来てこれに加えて、ウサギや七面鳥など日本では馴染みの少ない肉が売られているのには驚いた。

名札のイタリア語を良く確かめないと、ブタ肉のつもりで買って来たら、七面鳥だと分かったこともある。見た目は似ていても、食べていくうち歯ごたえが違ってくる。

フランチェスコは統計を見てきたかのように言った。

「ブタが50%、牛が25%、その他で25%、これが大体の消費量だ。特にブタはイタリアで一番ポピュラーだ。ハム・ソーセージとしても使われているからだ」

こう言って説明してくれたのが、その分類である。

まずブタのもも肉を燻製にして1〜3年置いたのがプロシュート(Prosciuto)で、最上質である。次いでその他の部位を袋物につめ、寝かした年数の長いのがサラメ(Salame)、少ないのがサルシッチャ(Salsiccia)、年数が少なくてこれに小さなサイコロ状のブタ脂を入れたのが モルタデッラ(Mortadella)である。さらには頭部の部分は、コッパ(Coppa)である。

フランチェスコは言っていた。「自分はコッパがいい。味も良いし、値段も安い」

もう1つこれが通なのかと思ったことがある。それはチーズである。

私もパスタ料理にはチーズの粉をふりかける。別の近所の男性は、チーズをナイフで切りながらワインのつまみにいくらでも美味しそうに食べる。

牛の乳からとって作ったのがフォルマッジョ(Formaggio)であり、ヤギがカプリーノ(Caprino)、羊がペコリーノ(Pecorino)である。さらに水牛や牛の乳でつくるソフト・チーズがモッツアレッラ(Mozzarella)である。

いろいろあるものだと感心した。

ちなみに日本は牧場と牧草地66万ha(国土の1.7%)、イタリアは453万ha(同15.0%)、年間降水量東京は1,467mm、ローマは717mmで、格段の相違がある(注1)。こうして食材の違いが生れているのだと思った。

◆「ダイエット」、あるいは「ベジタリアン」
当地に滞在し、日本では想像もつかない予想以上の「ダイエット」、あるいは「ベジタリアン」という人に遭遇した。

一方では、顔つきも上半身も大きくはないが、下半身は相当な体重と見かける人がいる。もちろん若い人はそうでもない。

ある時フランチェスコの知りあいの家族が来た。一緒に夕食をとった。

20歳前後の娘さんであるが、私の食べたスパゲティの2倍、2皿は優に食べた。体つきは実にほっそりとしているが、若いと違うなあと見ていた。

美味しければ食べれば良いと思いつつ、隣のお母さんに目を移せば、相当な肝っ玉母さん風である。フランチェスコに目配せすると、「うんお母さんと同じになる」と頷いていた。

パスタと肉類を中心に、しかも一定の量をもこなす、こうした食生活が長く連綿と続いてきた。これらがイタリア人の体型を作りあげて来たのではないかと思った。

こうしたことへのある種の反動が、「ダイエット」ないしは「ベジタリアン」の行為につながっているのではないかと想像した。

もちろん「ベジタリアン」の言い方には、肉類を決して食しないという意味合いと、反対に菜食にするという強調点が違う面があると思った。ともあれ「ベジタリアン」=「ダイエット」の意味合いを持っている感じを強く受けた。

その私が、食材は日本と少しずつ違うが、炒飯やカレーや、時には魚を買ってきて捌いて作ってみた。

「これは行ける。コジロ、ボローニャで日本料理店を出したら」とくる。料理を何も知らない私に、なんて答えてよいやらである。しかし、美味しそうに食べていたことは間違いない。

なお隣の家には働きながら、大学最後の単位である論文と学位をとろうとしている女性がいる。彼女は「ベジタリアン」である。

その彼女が来た時は、カレーを作るにも、残念ながら最初から肉は入れない。肉の入っていないカレーを作り、彼女用にまず一定量を盛りつけする。

その後ベジタリアンでない者のため肉を入れ、少しだけ煮込む。肉を入れてじっくりと煮込まないカレーなんてと思いながら、それでも美味しいといっているから、まあいいやと思ったのである。

それにしてもフランチェスコをして「今日は野菜料理だから良い」と言い、白米だけで食事をすますこともあった。白米は野菜で、所変われば受け取り方もいろいろだと思った。

〈交通規則の不思議と弱者優先〉
◆自動車専用の交通信号は殆んどない。
ここ最近は下宿の自転車を借りて、約20分のチェントロに出かけることが多い。最近は、ようやく交通信号にも慣れてきた。

その特徴を一口でいえば、日本でいう自動車専用の信号は皆無か、それに近いと言ってもよい。全てが日本でいう歩行者用信号である。人も車も、歩行者用信号に相当するところの信号を見て動作を決定する。

歴史的市街地区の内外を分ける壁を取壊して作った環状用の大きい道路になると、中央分離帯あたりに、自動車専用と思われる信号がもう1個増える。しかし、多くの交差点では歩行者用と思われる信号のみである。

この結果どうなるか?私は次のように解釈した。人も車も、同一の歩行者用信号を見ることになる。日本でいえば、自動車用信号を見ていて、左折したところ、歩行者が渡っていて事故を起こしたことを度々目にした。

しかし、ここでは歩行者用信号を見れば、当然に歩行者を見ることになる。その意味では、視線を同一個所に集中させるという点で極めて理にかなった科学的根拠をもったものであり、かつ歩行者優先の思想を持った信号器設置のあり方だと思った。

実際の交通事故なり、死傷者がどうなっているかは不明だが、意味のある信号器設置だと思ったのである。

自動車用信号はどこに?右の歩行者用と思われる信号を見て待つ
自動車用信号はどこに?
右の歩行者用と思われる信号を見て待つ。

ボローニャ・サッカー場近く、信号は歩行者用の位置
ボローニャ・サッカー場近く、
信号は歩行者用の位置

◆自転車、車道を走る
次に自転車はどこを通ればよいかである。日本で交通法規がどうなっていたかは、すでに判然としないところがある。どちらかといえば、歩道を通ることが多かった。車道を通ってトラックなどに引っ掛けられればお終いだし、危なくて仕方がなかった。

ところがボローニャでは、歩道を通るのであれば押してゆくか、ゆっくりと行かなければ捕まえられそうな感じである。そうすると車道を通らなければならない。もちろん車道は、日本と反対の右側通行である。

自転車の右側通行で、右折の際は交差点でそのまま右へ小さく回れば良い。問題は左折である。最初は一種の2段階左折と言おうか、一旦直進し、信号が変わるのを待って左折してゆくというやり方をとっていた。

しかしボローニャの皆は違うのである。左折の場合、交差点が近づくと左へより中央分離帯あたりに自転車を持っていく。そこで信号や車を確認し、交差点中央に進み、状況を見て、左折していく。つまりは自動車と全く同じやり方である。

この結果どうなるか?

自転車と自動車が常に並行して走行していることになる。こうしたことを前提にした交通のあり方である。日本でいえば、車道を自転車が通ることはそれ程念頭には置かれていない。

どちらかと言えば、自動車の走行しか考えていないのかも知れない。こちらでは自転車やバイクを含めて、常に車両上の強者・弱者の同時走行を前提とした行動が要請されていることになる。

加えて歩行者優先がともすれば、行きすぎだと感じるときもあるほど、信号と関係なく横断する人が多々いる。

こうして自動車の運転手は、@歩行者、A歩行者用信号、B自転車・バイク、をよく見て運転していることになる。その点は実に感心する。こうして私も最近、交差点が近づき左折の時は、中央付近に自転車をよせていく。私のすぐ後ろに大型バスが居ても問題なしである。

なお付け加えれば、デンマークやスウェーデンを旅した時のこと、ちゃんと自転車専用道路が長々と続いているのを見た。その点ではイタリアや日本はまだまだと感じたのである。

大きな道路では中央分離帯あたりに小さな自動車用信号がある
大きな道路では中央分離帯あたりに
小さな自動車用信号がある。

自転車が車の間にいてもおかしくない。ヘルメットなしの人。
自転車が車の間にいてもおかしくない。
ヘルメットなしの人。


(注1)「2003年データブック オブザワールド」二宮書店(2003)pp.219〜220,326.


ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
First drafted 1.5.2001 Copy right(c)NPO法人福祉広場
このホームページの文章・画像の無断転載は固くお断りします。
Site created by HAL PROMOTION INC