梅浩先生のボローニャだより
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第2節 エミリア・ロマーニャ州における外国人移民

〈外国人移民〉

ボローニャに滞在し、日本にいては接触することの少ない外国人移民を、数多く日常的に目にしてきた。

しかし、移民問題が重大な自治体政策上の争点になっているといっても、一種の人種問題、すなわち市民社会でどのように共存していくかという風にしか理解していなかった。

ところが、やがてボローニャ社会の様々な問題と無縁ではないことの認識を深めてきた。

それが例えば、出生数の激減、代替労働力問題とも関わって、イタリア社会を構成する根本的なあり方そのものと深く結びついている問題であることが分かってきた。

外国人移民の問題は、イタリア社会を考える上で避けて通ることのできない問題として理解するようになった。

そこで今回は改めて、エミリア・ロマーニャ州並びにボローニャ市の資料により、外国人移民について、考えてみたい。

土曜市は人種のるつぼ 1
土曜市は人種のるつぼ 1

土曜市は人種のるつぼ 2
土曜市は人種のるつぼ 2

〈エミリア・ロマーニャ州政府は移民をどうみているか〉

エミリア・ロマーニャ州政府は、毎年一種の移民白書とでも言えそうな資料を発行している。最近では、「エミリア・ロマーニャ州における外国人移民(2003年1月)」である。

そのダイジェスト版的な資料により一部を紹介してみよう(注1)。

◆移民の歴史の3段階
「最近では、1つの現象とでもいえるエミリア・ロマーニャ州の外国人移民は、主要な3つの段階を経てきたといえる。約20年前レッジョ・エミリア県の鋳物工場や建設工事現場でのエジプト人労働者の最初の参入にさかのぼる。

第1段階は、従って80年代であり、その規模は3,000人で、居住人口の1%以下に、未だ厳しく押さえられていた。出身国は北アフリカであり、ことに大人の男性労働者であった。

第2段階は、90年代前半の緊急事態における流入であった。すなわちベルリンの壁崩壊後、東ヨーロッパの政治的混乱に関連し、バルカン地域、ことにアルバニア(筆者注、アドリア海をはさんだイタリアの対岸)からの流入の増大があった。

第3段階は、90年代の後半であり、年間15%に上る増大の傾向である。移民は家族の合流により安定の傾向をみせている。女性の割合は50%に近づき、学校における外国人の子どもの存在が大きくなっている。出身地域は、アフリカや東ヨーロッパを超えて、アジアやラテン・アメリカに広がっている。

特に最近の数年間、エミリア・ロマーニャ州における外国人移民は、市民社会全体の表情を示す明らかな突出した現象となっている。今では20万人を上回り(正常な滞在許可を待っている人、約5万人)、全住民の5%を占めている」

◆移民と労働
「移民を要因とする労働市場のことは、移民の地域的分布と県の労働市場の関係を示す報告分析で、はっきりと確認できる。もし私たちが、県の失業者の割合と移民の存在を比較するとすれば、これら2つの間では、ほとんど逆の比率が存在するものとしてみることができよう。

すなわち、失業者の割合が小さいのはレッジョ・エミリア、モデナ、ボローニャの各県であり、これらの県は逆に移民の存在は大きいのである。移民は、州のなかで経済力の強い県から、弱い県へ裾野を広げながら滞在している。

このデータは重要である、なぜならイタリア人の労働と移民による外国人市民との間には、直接的な競争が存在しないという主張、少なくとも大部分はそれを認めてもよいように思われる。

また外国人市民は、どちらかと言えばエミリア・ロマーニャ州において、もはやその仕事が困難で、かつ収入が少ないものとして、拒否されているそうした役割を引き受けている傾向にあるのも事実である」

表-1 州における移民の割合

◆移民と学校
「家族の合流は、移民の成熟の初期段階から見られ、そして90年代後半からエミリア・ロマーニャ州では重要な段階に達する。外国人の子どもの増大は、学校の入学期日の頃に強化される。すなわち、最近の教育年度では、幼稚園から小学校へ、中学校から高等学校

表-2 州内の学校での外国人生徒の割合

へという、私たちの州の学校へ入学する時期に外国人の児童・生徒の増大する傾向が見られる。

エミリア・ロマーニャ州は、外国人市民の割合はイタリアで第4位に高いという事実、にもかかわらず学校での外国人子どもの割合が第1位という結果は、社会的に達成した融合、もしくは移民現象の安定性を示す良い指標となっている」

土曜市は人種のるつぼ 3
土曜市は人種のるつぼ 3

土曜市は人種のるつぼ 4
土曜市は人種のるつぼ 4

〈イタリア移民について〉

以上の内容は、

@外国人移民の受入れは約20年余の歴史であり、1990年代以降急速に増加していること、
A移民は雇用を求めて流入し、農業労働を含めてきつい仕事といわれる分野に進出し、移民がイタリア人の雇用とは競合関係にはないこと、
B学校での外国籍生徒の増大に見られるように、家庭を単位とする移民の増加は社会の安定性を示していることをあげている。こうしたことからおおむね評価すべきこととして、歓迎の意向を示すものとなっている。

ここで「移民と外国人労働者」(北村暁夫)について書かれた一節を紹介しておこう(注2)。

「1861年の国家統一から1970年代まで、イタリアがヨーロッパ諸地域や南北アメリカに送り出してきた移民の数は、延べ2,000万人を超える。ところが、移民送り出しの動きは1970年代に急速に衰退し、その後は一転して、移民=外国人労働者を受け入れる国となった。移民の送り出し国から受入れ国への劇的な転換という過程は、日本がたどった道のりと類似している」

この指摘のように、かつて日本も近代史の進展のなかで、ハワイを始めとするアメリカや、中南米諸国へ、数多くの移民を送り出してきた。その動きは戦後にいたっても、私自身が郷里で、数多く身近に見聞してきたことがらである。そして近年に至っての転換であり、中には中国からの不法入国の類を数多く目にしてきたところである。

ともあれ、イタリアではこうした地点にたち、1990年に、外国人労働者に対する法的整備がなされる(注3)。このエミリア・ロマーニャ州では同年州法が制定され、今年改正法が承認された。名称は、「外国人移民の社会的融合のための規範」1990年1月21日付州法改正、2004年3月17日州議会承認」である(注4)。先の第3段階にたった州の方向が示されている。

〈ボローニャ市の移民統計〉

◆ボローニャ市への移入・移出の推移=イタリア国内の減少、外国からの増勢
ここで改めてボローニャ市における移民統計をみてみよう。表−3と図−1グラフは、

表-3 ボローニャ市への移入・移出推移
図-1 ボローニャ市への移入・移出の差引合計の推移

外国人のみならず、他のイタリア国内の移動についても含まれている。移入、すなわち人が他地域から住所を変えて移動してくることである。過去11年間で10万6,500人、内訳はイタリア国内から9万人近く、外国からは1万6,600人となっている。これに対し、移出は10万7,500人、イタリア国内へ10万4,000人、外国へ3,300人である。

つまりイタリア国内では1万4,000人の移出超過となり、外国は1万3,000人の移入超過となっている。まさしく外国からの移入が、イタリア他都市への移出を大部分補う内容となっている。

すでに第29回で1990年代、特に同前半において大都市の人口が中小都市へ移動する逆都市化現象を呈していたことを指摘した。同上のグラフはそのことをも如実に示し、併せてイタリア国内移入・移出の合計はプラスに転じず、外国人移民により、かろうじて人口減少が押し留められているかにみえる。

◆出身地別ボローニャ市人口構成=ボローニャ生れの減少を外国人出身者が補う

表-4 出身地別ボローニャ市人口構成の推移
図-2 ボローニャ市人口構成の推移

表−4と図−2グラフでは、ボローニャ市人口は11年間で40万6,000人から37万8,000人となり、93%へと減少している。他イタリアからの出身者の92%の減少と比較して、ボローニャ生れの減少傾向はいっそう大きく、89%で、1割以上の減少となっている。これを外国出身者の増勢により補うかたちとなっている。ボローニャ生れは3分の1に近づいている。

ボローニャ生れの減少は象徴的な数字である。この89%の現象には、自然減と社会減が含まれる。自然減でいうならば高齢者のマイナスを、出生数で補うことができないことであり、社会減ではボローニャ生れにとっても、他のイタリア出身者と同様の移出の動きががあり得る。これらが重なりつつ、10%を超える数字を示すことになっている。

路上販売の人も多い 1
路上販売の人も多い 1

路上販売の人も多い 2
路上販売の人も多い 2

〈ボローニャ人は雇用を求めてどこへ行く〉

最初のエミリア・ロマーニャ州政府のまとめでは、「外国人移民がイタリア人の雇用とは競合関係にはないこと」を結論づけていた。そしてボローニャ市では、過去10年間に1割を超える人口減少が起き、自然減だけではなく社会減も想定される事態である。そして「競合関係にない」外国人が参入し、人口減を補っている。

疑問に思うのは、表−3の移出したイタリア人、表−4の減少したとするボローニャ生れの人たちはどんな労働に従事し、現在はどんな就労状態だろうか。その人たちは単に3K職場を嫌って移出し、外国人移民が取って代わっただけではないはずである。どんな雇用を求めて行ったのだろう。そこのところに疑問を持った。

当然のことながら、「ボローニャ、すべて良し」ならば、決してこうした数字にならないことは自明である。

だが、ある知人は筆者に向かって言った。「コジロ」「フランスやドイツを見るとわかるだろう。フランスはアフリカから、ドイツはトルコやその他から、以前からケタ違いの外国人が入っている。問題はあっても、それでもうまくやっている。

イタリアは、まだまだ移民の数は小さい」と言い、驚くことはないという言い方をしていた。

前回のEU拡大に際しては、国家の多様な存在を認める動きを紹介した。今回は外国人移民を通じて、国家内部の他民族社会のあり方と共生について考えるきっかけとなった思いがした。


(注1)引用文は次の通り。Regione Emilia-Romagna, Lユimmigrazione straniera in Emilia- Romagna(2004), www.regione.emilia-romagna.it/NotizieUfficioStampa/2004/mar/immigrazione/305191/cifreimmigrati.pdf 。 また本文の紹介資料は次である。Franco Angeli, Lユimmigrazione straniera in Emilia-Romagna-dati 1.1.2003,Regione Emilia- Romagna。

(注2)馬場康雄・奥島孝康編「イタリアの社会」(1999)早稲田大学出版会、pp.173。

(注3)新たな移民の規制と同時に、雇用証明で滞在許可を与えられた移民に対する一定の市民生活の保障がなされた。前掲書、pp.187〜188。

(注4)もとの名称は、REGIONE EMILIA-ROMAGNA,Deliberazione legislativa n.128/2004) である。


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