梅浩先生のボローニャだより
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第2節 サーズ禍1年、再び中国と向きあうイタリア人女性

〈傷心のサーズ禍〉

■中国と向きあうイタリア人との出会い

私が少しばかり年のいったイタリア語の生徒であり、相手が若い語学の先生だとしても、普通の生徒と教師であった。

しかし、イタリア語学習を継続していく中で、その彼女が、実は1年前にサーズ(重症急性呼吸器症候群、SARS)蔓延の中で、心ならずも仕事先の中国から帰国しなければならない傷心の中にいることを聞いた。

そういう私も、1年前、サーズ禍を引きずりながらイタリアへ来たのは事実である。

昨年(03年)の5月連休後半から1週間程度、北京の中国社会科学院に所属する研究所の1つを訪問して意見交換する、ある大学の研究者グループの学術交流計画があった。私は日本側の事務局長としてすべてを準備していた。すでに1年も前からの計画である。

昨年の4月1日、確か香港でのサーズ拡大の報道に接し、これまでの中国における情報の扱いからして、相当な拡大の予測を判断したのである。

日本のマスコミが大きな扱いで報道を始めるのは、4月も中下旬になってからのことである。それより2〜3週間前のことだ。

訪問延期のFAXを北京に送ったのは、紛れもなく4月1日であった。その日はようやく相手方から正式招請状が届いた、まさにその日であった。

相手方はおそらくまだサーズ拡大を信じていないだろう状況だけに、その受けとめ方が大いに心配になった。断腸のおもいであった。

やがて知られているようなサーズの広がりを見せていく。そして3ヵ月後の7月1日、私の日本出国である。イタリア滞在で、気にはなっていたが延期の状態のままである。

こうした思いを抱えてやって来ていた私には、その昔イタリア人のマルコポーロが中国へ赴いたのではないが、彼の出身地ヴェネチアで中国語を学んだ彼女が、何故東洋に、なかでも中国に関心を持つに至ったかに大変興味を持った。

もちろんファッションを始め、イタリア企業が早くから、中国に進出していることも承知している。

しかし近年、イタリアから東ヨーロッパ諸国へ企業進出の大きな流れがあることも確かである。

こうした中で彼女がどういう思いを抱いているのか、そこには現代イタリア女性、ひいてはイタリア人が世界をどう見ているのか、その方向が見えてくるのではないかと思ったわけである。

今回は、この彼女の思いを通じてイタリア人の1つの生き方を探ってみたい。

■私と中国との関わり

始めに、私と中国との関わりを少しだけ述べておこう。

本欄の私の著者紹介欄を通じて、お気付きになっておられるかも知れないが、私は長年中国へ行き来してきた。主に上に述べた関係から1ヶ所は北京であり、もう1ヶ所は上海と重慶の中間点にある武漢の大学との交流である。

これまですでに度重なる相互訪問を経験してきた。北京と、地方の枢要都市・武漢の両者を見てきた関係から、中国の変貌ぶりはおそらく相当程度に承知しているつもりである。

イタリアと中国では、同じ歴史の国といっても、両国には相当な違いがある。

イタリアが歴史の中で生活し、歴史とともに生きていることを実感するならば、中国は新旧の歴史が共存しつつも、ダイナミックなまでにすべてを作り変えていこうとするかつての日本を彷彿とさせる国でもある。

例えば、長峡三峡ダムから北京に至る巨大な水路を人工的に為そうとしている国である。

私の言葉でもって都市を表現すると、一方が成熟型都市であるならば、他方は成長型都市そのものである。

しかし、私には何故か異質なはずの両国が、日本にとり大変参考になるものが潜んでいるものと思えて仕方がない。

毎年のように中国を訪れる機会を持ってきた。イタリアへ留学する私に、中国に関心があるなどとはおそらく想像がつかないかも知れない。しかし、それが現実なのである。

両者はともに日本へ多いなる示唆を与えてくれるものと確信している。

共に中国にいた友人とマスクをして(右)、ただしボローニャ駅前
共に中国にいた友人と
マスクをして(右)、ただしボローニャ駅前

〈再び中国と向きあうイタリア人女性〉

彼女は、私の要請に対し様々に答えてくれた。以下紙上再現してみよう(注1)。

■なぜあなたは東洋・中国に興味を持ったのか?

私は、ボローニャ生まれの、ボローニャ育ちです。

小さい時、東洋は私たちのいるヨーロッパの現実、特にイタリアと比べて大変異質な世界の一部分であるように考えていました。

東洋に関しての最初の興味は、お祖父さんの家で生れたことだろうと思います。

第2次世界大戦中の彼は、アフリカで最初の捕虜となりインドに移されました。よく私に、この家から遠く離れた経験を私に語ってくれました。私が子どもの頃から空想的に想像できたところです。

それ以上に、彼の家には中国人女性の幾つかの優雅な彫像がありました。そして私が最も古く印象に残っていることは中国の何枚かの複製画でした。

この“異質”というイメージの感覚からの出発でしたが、私にとって少し神秘的なことが、東洋に対し興味を育んでいったものと思っています。

ある国と出会うためにはより美しい表現の芸術を考える。そして中国のケースでは、最初小さかった時、風変わりなイメージの複製画で、伝統的な想像上の動物に関するカラー印刷でした。

あるいはまた信頼して秘密を持っているかのような晴々とした顔つきの仏像に対し、少しコンプレックスを感じさせる芸術的な輪郭が、私を魅了してしまったのです。

また、単純な外観構造の建物、その骨組みが直線状だが、細部は大変豪華で、かつ柔和な色彩を持っているようでした。

しかし、この東洋との対比における興味は、高等学校まで、とりわけ語学の勉強を決めるまでは大変強いというものではありませんでした。学部を選択するときがやってきた時、大変考えました。

ヨーロッパ言語は排除しながら、東洋言語の方向に向かうことを考えました。ためらいは、中国語とヒンディー語との間でした。少し偶然を信じて、中国語を始め、とうとう“自分の言語”とすることを決めました。

■ヴェネチアでの語学勉強

東洋言語・文学コースを勉強するために、ヴェネチア大学に入学した時、中国文化の多くの局面を掘り下げたいと考えました。

そしてとりわけこの国の歴史が私に暗示をかけました。この国は無限であり、広大であり、想像を絶しており、さらにその当時の私の視界からいえば、高嶺の花でかつ神秘的なものでした。

いま中国を考える時、調和が取れている文化、人々に影響を与える文化、そして親密的な大陸、を見てしまいます。

大学の経験は、大変実際的、前向き、積極的なものだったといえます。とにかく、文化や伝統に接近するのに期待通りのものでした。後に実際に上海や北京に行った時に、どちらかと言えば複雑で、個人的には衝撃的であったこともありますが・・・。

大学では、例えば歴史、それは現実のものでありながら、一方では現代から遠く離れていたりしたようなところもありました。従って私には物語のようでした。

理論の含まれるたくさんの教科も学習しました。その教科は私にはより現実のものでありながら、むしろ私が中国について持っていたイメージに通じているところがありました。

それ以上に、私の注目を引きつける作品がありました。結果として、伝統的な賢人による聖人伝集という中国の“偉大な哲学・文学”を発見しました。

この瞬間の熱狂は、孔子(前551- 479)、老子(前604?-531?)、荘子(前369?-286?)などの使った古典言語の研究に集中させることになりました(注2)。

それらは現在では優れた部分がおろそかになっているように思われます。しかしそうはいっても私たちの国の伝統においても、文化の根っこの部分を無くしてしまっていて、よりやさしい“新しいもの”に言及することが多いのは確かです。

知人と寺院見学 1
知人と寺院見学 1

知人と寺院見学 2
知人と寺院見学 2

■中国留学の経験

実際には、合計9ヶ月中国に滞在しました。最初は上海1ヶ月、北京2ヶ月滞在の、計3ヶ月('99.7〜'99.9)でした。ボローニャから1人で出発しました。

というのはよく友人・知人などと外国へ行ったりしながらも、しばしばあるような仲間だけの小さなグループに固まってしまう傾向があったからでした。

しかし、上海空港に着きそこをでる時、突然泣き叫ぶことになりました。何故なら私の方に向かって、何かを泣きわめきながら理性を失ったある群集がやって来るのをみたからでした。

私は、彼らが言っていることがどうしても理解できませんでした。さすがに、すぐに家に戻りたかったのです。

学校の下宿に着き、少し落ち着きました。そしてすぐに世界の他の人々と知り合いになりました。それは、まさしく私を中国に慣れさせる最初のきっかけづくりであったのでした。すなわち中国語を勉強し、上達するためだったのです。

上海には、最高の思い出があります。そこは、活発で、生きいきとした街です。そして大変国際的で開放的な街です。北京は、少しきちんとした、やや灰色で、かつ皇帝風のところです。しかし観光するのには古い街角があり、興味はつきません。

両都市とも、強い大気汚染が私を襲いました。このような石炭とガスに溢れた街で生活するのはうまく行かないだろうと思ったことがあります。

そして新旧の、極度な清潔と不潔さの大変なコントラストも私を襲いました。しかし両都市では、ともに大変やさしく心の広い人々を知ることができました。

北京や上海での学校の経験は、私が予想していたように充分役立ったとは思えませんでした。当然、路上の行き交いや友人との会話で言葉を覚えていきました。

それ以上に、中国における学校の教育のあり方が私にとって少し負担となっていました。他の大学の仲間たちにとっても、外国語コースを考える方法に違いがあることに気付きました。

私は、3回イギリスとアイルランドに英語を学ぶために出かけています。それらの国では教育方法は、大変“友好的な”もので、深刻さがなかったのです。

中国に行った2回目('02.11〜'03.4)は、完全に違った気持ちで行きました。中国に赴く前の数ヶ月間で、ヴェネチア大学の学士号を得ていました。

この時は働くためにミラノの会社と契約しました。午前中は学ぶことができ、午後は2時から8時まで働くという契約でした。会社は旅行業と建設コンサルタントの両方をやっていました。

最初の時にはなかったことですが、気持ちよく、かつ滞在を有意義に過ごし、やっていくことができるだろうということがわかっていました。

この時は、北京を知り、何人かの人を知り、それ以上にタクシーを利用することを覚えました。タクシーでよく移動しながら、本当に真心がこもり、それ以上に大変おしゃべりな気質のある市民を見ました。

ただ単純に時間を過したり、食べもの、北風、そしてお茶の話しなどでしたが。彼らのやり方で、快適な生活がしていけるだろうと思いました。多分少し風変わりな労働者で、語学と絵画を学ぶ外国の女の子としゃべりたかったことだろうと思います。

美術学校で学び最初の数ヶ月間下宿していたところでは、午後に伝統的な絵画と習字のコースにもいました。勉強と労働を、“おもしろく、有益な”生活に変化させ、気分転換と興味に変えることができました。

要するに私の2回目の中国滞在は、大変ゆったりとした方法で生活することができました。

■サーズ禍

中国へ行った2回目、つまり働くために北京にいた時のことです。

あいにく小さな禍はイタリアへの帰国を早めさせることになりました。サーズ、“流行性伝染病”は、私だけではないと思いますが、私の計画を変えさせることになりました。

始めの頃、つまり2003年2月頃、何人かのイタリアの友人と私は、雑誌で兆候を示す記事を読みました。それは重要性を余りにも考慮していなかったものでした。

3月の中頃になると、イタリアからむしろ不安を抱かせるニュースが到着し始めました。中国南部で約100人の死者があったといわれ、サーズは急速な広がりを見せていました。

親戚や友人に会いに行き、あるいは仕事を探しに、人々がこんなにも大きな国土で移動する。人々の移動のうねりを考えるならば、どうなるのか想像するのは容易でした、

しかしまだまだ、北京の私とたくさんの他の者は、危険性を充分には分かっていませんでした。すでにイタリアでは帰国を呼びかけていました。蔓延する“流行性伝染病”は、評判の悪いイメージ、ちょうどペストのようでした。

中国人でさえ、サーズの危険性について知らず、彼らの言葉でいえば少し重たい流行性感冒位にしか気付いていな「ことは驚きでした。

何人かが呼吸感染とこうなった確かな医学情報をとることを助言しました。私たちは、細菌から身を守るため半仮面(額から口の上部まで覆う)を着用して慎重にすることを考えました。

しかしあるところでは1台のバスに50人も詰めた状態になっている、大地にたくさんタンをはいている、衛生状態の考えが私たちの考えととてもかけ離れている、最終的な解決策の半仮面を几帳面に着用する姿が見えない、ことなどが気にかかりました。

疑問点があり、質問を繰り返し、やがて良い情報が入りました。しかし大使館へはまだ多くは知らされないままでした。

一般に、外国人のところへの返事は、2つのタイプがありました。学生と旅行者は可能な限り早く帰国した方が望ましい、しかるに労働者の健全な部分とそれ以上に事業経営者で中国に滞在する経済的根拠があるものは残った方がよいと言われていました。

私にたいする決定が雇用者のところにやってきました。実際の状況がどうであるか正確にはわからないままに、私がイタリアに戻るのが良いということが決定されました。

会社の彼らにも問題はありました。何故なら、北京事務所の閉鎖が強制されました。私のために、1軒の借家を4ヶ月間取得し、すでに家賃は支払い済みでした。

仕事にも、友人にも、家に関しても断念する状況に追い込まれました。

こうしてイタリアに戻り、最初の1週間、わかりやすくいえば、私がサーズに感染していたかもしれない恐れのために、私に会いに来る友人は誰もいませんでした。

幸運にも約1ヵ月後、良好と判明することができました。ボローニャの普通の生活を再開しました。仕事を探し、外国人にイタリア語を教える学校につくことが決まりました。

新旧が同居する上海 1
新旧が同居する上海 1

新旧が同居する上海 2
新旧が同居する上海 2

■再び中国と向きあう

しかし、私にはいつまでも学校で教えているわけには行きません。

何故なら何年かの勉学で積み重ねた知識を使うことが好きです。そして、次の行き先はもう一度中国だと思っています。その時のために、確かな計画は未だありません。

いま、中国へ確実に行くことができその準備でまずミラノに行く仕事と、一方ではボローニャにある中国の会社で自宅から通勤できる仕事、の要請の中で揺れ動いています。

2つとも、大変興味深く、多分数日の間に決まるか、それとも私の将来のために、何らかが決まることになるでしょう。

■いま、日本について思うこと

私の日本への考えは、これまで持っていた考えと大きくは変わっていないと思います。

何故なら、日本を直接見る機会がなく、頭の中の考えだけであることをお断りしておきます。私には、日本は、イタリアとは対照的な国で、少しだけ中国のように見えます。

大変近代的な現実(ガラスと鏡の超高層ビル、仕事と責任のために走りまわっている人)と、他方では大変無風で静かな状況を想像します。

日本は技術と伝統の国、仕事の現場でみるように生活のスピードが速い国、そして公園や自然があり静かな国だと思っています。選択の可能性をすべての人々に提供する意味において、おそらく完全な国だろうと思います。

わたしは、日本では、大変よく働き、みんなが几帳面で綺麗好きであると聞いています。

また、労働ということに関して言えば、集団的な労働の中で、集団のためにほとんど献身的に働くものであり、集団の中での人間のあり方がより重要であると聞いています。

日本の大変美しい外観の評価といえば、静かな高台の緑の中に透徹した小さな寺社の写真を見たことがあり、また人々の表情に繊細さを見たこともあります。

スピードと近代的な技術は、私に関心を持たせることがらです。これらのことは、日本を決して見たわけではないので、無条件に評価を下すことはできません。しかし驚きと理想と言うことはできます。

もし機会があるならば、今年知り合った友人に会いにいくために喜んで日本を訪問したいと思っています。

〈今後の活躍を祈って〉

人と人の出会いは、不思議なものである。幾つかの条件が整わなければ、信頼に基づく会話は成立しないであろう。

昨年夏に語学学校で見かけた頃はまだ帰国して日も浅く、見習い教師の感であった。その後、私の問いかけにヴェネチア大学で学んだことや、様々なことをしゃべってくれた。

彼女のこれまでの思いを聞きながら、東洋や中国へ向かう気持ちにはイタリアの歴史を背景にした、育った家庭の環境が大いに関係していることが理解できた。

これまでの積み重ねの中で、人生の選択を迫られた時に、過去の触れてきた経験がよみがえり、活きてくるのだとあらためて確認することになった。そうして自らの思いを土台にしながら、対象とする世界・中国に自由な意思で人生を賭けていることがわかった。

また、日本の印象について彼女が遠慮がちに言った「仕事と責任のために走りまわっている」、「集団のためにほとんど献身的に働く」ことは、良きにつけ悪しきにつけ、イタリアにおける場合と対極をなしていることは事実であり、重要な指摘であろうと思った。

日本から西洋へ行くのも、西洋から東洋へ行くのも、大変な決断がいるに違いない。しかも、それをあっさりとやってのけるところが若者の特権かも知れない。

中国語を“自分の言語”として選択した彼女は、これからも中国と付き合うことになろう。話を聞きながら、彼女の幼少の頃に、もう1つの国、日本の姿があったならどうなっていただろうかと思ってしまった。心の奥底に届く、そうした国際交流こそが求められているのだと感じた。

私が次に中国へ向う時に北京や上海で再会できるであろうか。それともボローニャの中国系会社で仕事をいているのだろうか。

イタリアと中国の橋渡しの仕事を、しかも輝きながら仕事をしている、さらに成長した彼女に再会できることを期待したい。グローバル経済のもと、理解し会える、異国のもう1人の若き友人ができたことは幸せである。

今後の活躍を祈りたい。

劇場の野外観客席
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スイカのトラック販売
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(注1)イタリア語からの翻訳上の問題は、もっぱら筆者の責任のもとにあることをお断りしておく。

(注2)生没年については、SEIKO電子辞書、岩波書店「広辞苑第5版」により筆者が補充した。


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