梅浩先生のボローニャだより
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第2節 ボローニャの歴史探訪

〈ボローニャの産業と水路〉

◆ボローニャの水路

世界の都市は、一般に河川と結びついて成立し発展してきた。日本の封建社会成立期には自然河川や、あるいは人工的な堀割による水路は、主として軍事的防御の手立てとされてきた側面が強い。

このボローニャの場合にはどうであろうか。城壁と城門は、防御の主たる役割を果たし、水路はそれ以外の役割をもって利用されてきたと思われる。つまり、産業や生活用水の目的をもって開削され、その水が利用されてきたのであろう。

いま手元にある2つの本を見ると、ボローニャの水がどのように利用されてきたかが記されている。その要点を紹介してみよう。

本にも紹介されている「額縁の風景」、そして水車のイラスト
本にも紹介されている「額縁の風景」、
そして水車のイラスト(注2

早春の額縁の風景、小枝のつぼみはまだ小さい。
早春の額縁の風景、
小枝のつぼみはまだ小さい。

左上にPORTO(港)の文字が見える、ボローニャが船で地中海と結ばれていた。
左上にPORTO(港)の文字が見える、
ボローニャが船で地中海と結ばれていた。

◆「子どもたちをボローニャへ案内」から(注1

「12世紀から、水はレノ運河により街に引かれてきた。流れる水は、製材工場、絹のねん糸、製粉工場や染色工場のために、そしてその他の職人の活動にために利用されてきた。絹でいえば、ボローニャはヨーロッパでの重要な生産拠点の1つであった。

ボローニャには「港通り」の地名が残っているように、運河には港があった。ここからレノ運河をへて、ポー川につなぎ、商品を低コストで、アドリア海の海岸の全都市まで輸送することができた。しかし、街の中の水路は覆われたままである」

ここには、人工的な水路によって引かれた水により、製材・絹のねん糸・製粉・染色などが早くから行われていたこと。さらには水路により製品が直接アドリア海(地中海)へ出て、各地に販路を求めて交易が行われていたことがわかる。

また水路はなぜか覆われていることが記されている。これについてはあとで説明を加えよう。

◆「歴史と読み聞かせのボローニャ」から(注2

「ある時ボローニャは運河によって水が引かれた。運河は中世に絹、皮なめし、織物染色、そして製紙工場の生産に向け、小工場の発展のために利用されてきた。ボローニャは事実、13世紀から水車小屋を所有してきた。小麦粉を挽き、絹の糸を作ってきた。それらの評判は高かった。

また、街の水の調達を確かなものにするために水源が配置された。「レモンダ」と「バーニ・ディ・マリオ」の水源は、両方ともルネッサンス期に建設された。重要な2つの水源は、街の水道システムとして水を供給した。

街の運河は、中世からボローニャとフェラーラ、ポー川とヴェネチアが結びつく航行の場所を提供した。1500年からナビレ港が建設され、1700年に塩の集積所にもなった」

ここでは皮なめし・製紙などの産業がさらに記載され、ルネッサンス期にはすでに上水道システムが完成していたことや、港の建設、重要資源の塩の集積所にもふれている。

◆第2次大戦後、産業の開花

日本の明治維新に少し先立つ時期に、イタリアは統一国家の時期を迎える。

近代イタリアの統一がなった頃の工業地帯は、統一運動の中心となったサルディニア王国のトリノやジェノヴァであり、これに加えて北部の街、ミラノであった。

イタリアの産業の流れは、ここからヴェネチアへの東方の流れとボローニャへの南方の流れのなかで工業化が進展した。ボローニャは、前の時代の産業を受継ぎそれを少しずつ発展させていった。

特に第2次大戦後は戦時経済から転換し、農業機械の製造をはじめとして、食品工業、繊維工業、革生産工業などが拡充強化されていった。消費者の需要にフレキシブルに対応できる生産システムがめざされ、産業は開花していった。

ボローニャを取巻く河川・運河、1はレノ川、1aはレノ運河
ボローニャを取巻く河川・運河、
1はレノ川、1aはレノ運河

ボローニャ(チェントロ)の運河網、1913年下水道計画による
ボローニャ(チェントロ)の運河網、
1913年下水道計画による

左のパイプは各戸からの下水立管、川底下の排水本管に流す。
左のパイプは各戸からの下水立管、
川底下の排水本管に流す。

◆なぜ水路は覆われているのか

ところで「水路は覆われたままである」と記されている。街を歩きながら一見すると、水路は無いように見える。あるとすれば「額縁のある風景」(第7回、第32回)として紹介した川筋である。

もちろん無いわけではない。写真4、写真5(注3)のように、産業のためむしろ相当広範囲に水路は作られている。かつそれを無きがごとくに遮蔽している。無いように見せるにはそれなりの理由がある。

まず第1は、歴史的な経過として押さえておく必要があることがらである。

ボローニャの絹がヨーロッパでの重要な生産拠点であったことと関わっている。いま風の用語で言えば企業秘密を守るためであったものと思われる。

水車による動力利用がどのように行われているのかがわかれば、製造工程が白日の下にさらされる。それを避けるために秘匿する必要があったのであろう。

しかし、それもイギリスで産業革命が進展しインドからの綿布や中国からの絹織物の輸入品に押される前の段階のことであり、1800年頃にはボローニャにおける絹の生産はほぼ収束していたようである。しかも遮蔽は運河の全部ではなく、一部であった。

ただし、蚕から絹糸を取り出し、捩り、糸にしていく精巧な技術は、やがて今日の工作機械や自動車や様々な産業へと発展していくことになる。これらの一連の製造過程は、今でも産業遺産博物館でその全体像をみることができよう(注4)。

第2は、むしろこちらが水路の遮蔽と直接に関わる内容である。時代は下って近代的な都市づくり、なかでも下水道設備を実施していく関係からである。

ロンドンでは1852年、パリでは1895年、イタリアでは、ミラノ・トリノ、そしてこのボローニャが相前後して公共下水道が整備されることになる。

ボローニャのチェントロ内では、1913年のことである。だが同時にこの排水処理は、汚物の運河への放流となり、悪臭を放つようになる。

やがて第2次大戦後の混乱が一段落した1950年に、運河には全面的に蓋(ふた)がかけられていく。

もちろんこれは消極的な解決策であり、積極策として運河の下部に独自の排水本管が設置され、各戸からの下水立管を受けて流されるようになるのは、ようやく1970年になってからである。

遮蔽された上部の空間はすでに道路などとして使われていることが多く、再び開放されることにはならなかった。これが水路の覆われている主な理由であろう。

ボローニャの発展段階のできごととして理解することができる。

〈歴史的遺跡探訪〉

◆天然の給水塔=「バーニ・ディ・マリオ」の水源

ルネッサンス期には、すでに上水道システムが完成していたというその水源の1つを訪ねてみた。

歴史的市街地区チェントロ南側の城壁部分から外に出て遠くないところである。つまりボローニャ駅と反対側である。そこは丘陵地帯となり、いまでは一種山の手風の立地条件であり、高級住宅地となっている。

その一角に「バーニ・ディ・マリオ」の水源はあった。

つまり丘の中腹に穴が掘られ、山腹からの浸透水をトンネル内の水槽で受ける。この水槽がバーニ(BAGNI,いくつかの水槽、浴槽)である。そしてトンネル内の傾斜を利用して幾重にもなる水槽に水を通させ、不純物は沈殿させ、浄化させていくのである。

こうした後に、最後はチェントロ中心地、マッジョーレ広場まで導管で導く。

当時は、ネプチューン像の噴水にももちろん利用され、また直接井戸を掘削することのできない市民のために、提供されていたとのことである。

飲料水は運河ではなく、この天然の浸透水が利用されていた。ルネサンス期、つまり500〜600年前に、こうした公共の上水道システムが完成していたことには驚くほかない。

このシステムの象徴となるネプチューン像には、「ボローニャ」(正面)と教皇領関係者家族(他の3面)の功績を記念して紋章が掲げられている。

ネプチューン像の水源地、「水槽(BAGNI)」が地名にも残る。
ネプチューン像の水源地、
「水槽(BAGNI)」が地名にも残る。

四方八方から浸透した水は、幾重にもなる水槽をへて浄化され中心部へ。
四方八方から浸透した水は、
幾重にもなる水槽をへて浄化され中心部へ。

ネプチューン像正面の「ボローニャ」の紋章
ネプチューン像正面の「ボローニャ」の紋章

◆歴史を読み解く、サラボルサ図書館の地下遺跡

マッジョーレ広場に面して市庁舎がある。

その一角、つまりネプチューン像の前に、市民の利用に供されているサラボルサ図書館がある。

サラとは広間とか取引所であり、ボルサは証券、株式である。100年程前から文字通り証券取引所として使われていた施設を、全面改修して図書館として再利用している重要な施設である。

そのホールに入ると、床面は透明で硬質な樹脂製品でできており、床下が見えるようになっている。古代ローマ時代以来の遺跡があることは何度も上からのぞいて、見てきていた。それが今回床下に回り、同じ目線で見ながら、説明を聞くことができた。

例えば、証券取引所の建設当時の姿を見ることができる。

すなわち、ボローニャにはその昔、権力の象徴として数多くの塔が建設されていた。200塔近くだとか、実際には70〜80塔ではないかとも言われている。そしてこの場所にも塔があり、礎石部分を除いて取り払われ、取引所が建設された様子が分かる。

また、紀元2世紀ころの石畳の姿が残されている。紀元前のアッピア街道に準ずる内容の一種の軍用道路である。ともあれこのマッジョーレ広場周辺が当時もいまもボローニャの重要な拠点的場所であることを鮮やかに示すものとなっている。

1920年代半ばの証券取引所(現サラボルサ図書館)
1920年代半ばの証券取引所(現サラボルサ図書館)

旧証券取引所建設のため取り壊された塔の礎石
旧証券取引所建設のため取り壊された塔の礎石

紀元2世紀頃の石畳の道路
紀元2世紀頃の石畳の道路


(注1)Anna Maria Brandinelli, Lorenzo Terranera, I Bambini alla scoperta di Bologna, Roma, Lapis e Palombi Editori, 2003, pg.40, Bologna sull'acqua.

(注2)Carmen Lorenzetti, Fausto Lobrano, Mauro Arrighi,Bologna tra storia e leggenda, Minerva Edizioni, 2003, p.68〜69, Le vie d'acqua. 水源名は、現在の地名にもなっている「バーニ・ディ・マリオ(Bagni di Mario)」を採用した。

(注3)写真4:Roberto Matulli, Carlo Salomoni,Il Canale Navile a Bologna,Venezia, Marsilio, 1984,pg.50-51. 写真5:Daniela Baccolo,L'Acqua Invisibile di Bologna, Universita degli Studi di Bologna, 1992,tav.46. 下記より引用。Comune di Bologna, Progetto per la fognatura della citta, a cura di A.Carpi, Vol.2, Bologna,Regia Tipogafia, 1913. 下水道等に関連する部分は、上記Dott.essa. Daniela Baccoloへのインタビューによる(2004年4月10日)。

(注4)Museo del patrimonio industriale, Guide to the Industrial Heritage Museum, Bologna, Roberto Curti e Maura Grandi, 2003.


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