梅浩先生のボローニャだより
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第4節 グローバル経済のもと、ボローニャで再会

〈ボローニャでの再会〉

25年前の春、当時勤務していた高等学校を卒業した生徒の1人にB君がいる。彼とは、授業以外にもある研究クラブの顧問と部長という関係であった。その彼と、このボローニャの地で再会することになった。予想だにしなかったことである。

B君と言ってももう40歳も半ばに近い働き盛りである。ボローニャでの再会は、グローバル経済と国際化のなかでのできごと、そのものかも知れない。

私は若い人でも「・・・さん」と呼ぶことにしている。しかし高校生の時に出会った彼には、やはり「B君」といった方が似合っている。もう5年も前にやり取りしたことを、記憶をもとに再現してみよう。B君の様子の一端がわかるのではないか、と考える。

◆◆タイからのお手紙を受け取りました。R部門のマネージャーとして5年の任期ですか?長いような気もするし、一つの仕事をやるにはそんなものかも知れませんね。外国経験のあるあなたらしい人事でないかとも思います。

昨年には、上京の折りのお誘いを受けていながら、忙しくてそのままになってしまいました。あなたが日本にいる間、結局ゆっくり会ってお話しをする機会をつくることができなく残念に思っています。その代わり、いつかの日か、バンコクでお会いできることを楽しみにしています。

私も数年前に渋滞と喧噪と、そして東洋のヴェネチアと言われ、水路が縦横に走るバンコクと古い都のアユタヤを、そして泰緬鉄道の鉄橋カンチャナブリ(注1)を訪れたことがあります。その街が今では懐かしく思い出されます。

それにしても高校を卒業して、ずいぶん経ったような気がします。ちょうど20年になりますか。あなたも一番の働き盛りになりましたね。ところで、最近近所のコンビニで買うワインに、ブルガリア産の安くて辛みのあるものが大変気に入っています。

それを買う度に、実はあなたと、留学先のブルガリアからつれてきた奥さんのことを思い出します。そして今はもう15年程前になってしまったあなたの留学中に、手紙をやり取りしたことが懐かしく思い出されます。

1983〜84年頃というと、東西対立とベルリンの壁が崩壊する1989年のはるか前でした。しかし、あなたの書き送ってくる手紙の短い断片の中に、当時の東欧社会の明るさと厳しさを綯い交ぜにした様子を窺い知ることができました。

何か必要なものがあればと書き送った手紙に、「日本食」は頷けるものの、「ボールペン、伝票ばさみ、タンス用パラゾール、ビニール袋」を少々と遠慮がちに付け加えていましたね。日本ではあふれかえっているその日常品が欠乏している様には、やはりなるほどと頷きました。

やはりというのはその頃私はイタリアへ行く機会を通じて、ブルガリアの隣国ルーマニアに留学していた日本人と会い、様々なルーマニア事情を直接聞くことができたからでした。チャウセスク政権下での物資の欠乏と過剰な自由への制限でした。

そうした意味では、壁の崩壊とその後の社会の変化にも、当然なるべくしてなったと、冷静にみることができました。しかし「厳しさ」だけでなく、今まで持っていた「明るさ」まで捨て去ってしまうことが無いように今でも祈っています。

これは私の年来の希望ですが、地中海を挟んだ西はポルトガル・スペインからイタリアと北アフリカを経て、ギリシア・トルコを通り、黒海を挟んだ東欧諸国を巡ってみたいと思っています。そして、その先にブルガリアが有るのだと頭に描いています。

なぜ地中海周辺諸国かといえば、ヨーロッパ文明の発祥地であり、民族のルツボと文明の多様さに触れてみたいと思っているからです。 ◆◆

その時からいえば、すでに5年が経過している。彼は5年の任期も過ぎたことになるが、請われて継続勤務となっている。私は約束のバンコクへ行くことができなかった。ただ年来の希望までは行かないが、その出発点としてのイタリア滞在を果たすことができた。

先日の短い一時帰国の際に、タイの連絡先を確かめ電話をした。「先生、3月に出張がありますので、その合間にボローニャに寄りましょうか」となったわけである。

雪を被ったマッジョーレ広場周辺、左上はサン・ルカの丘
雪を被ったマッジョーレ広場周辺、
左上はサン・ルカの丘

陽射しを受けるマッジョーレ広場
陽射しを受けるマッジョーレ広場

〈グローバル経済のもとで〉

それは普通で考えれば、大変な再会劇である。日本ではなかなか果たせなかった再会を、ボローニャで行うのである。それは私が1年の間、ボローニャという定点でいるから可能になったのかも知れない。

私の年代では、仕事がら海外へ出かける方を除けば、海外の長期滞在は余ほどのことがなければないかも知れない。いまようやく国際化の時代の中で、イタリアに滞在している。

一方、彼はいまなお日中30度近いタイから、中東のある産油国へ出かけて商談を済ませ、その後北欧の極寒の彼方に飛んだのである。外はマイナス15度の地で打ち合わせを済ませ、ドイツ・フランクフルトを経由して、このボローニャに到着である。私との1晩の再会のあと再び、ドイツ・ジュッセルドルフでの打合せと聞く。

14時ちょうど、定刻に飛行機は着いた。旅行客の最後の方に出てきた彼は、まさしく25年前に卒業した時の容貌そのものだと、私は感じた。確かに25年の歳月は人を風雪に耐えさせ、人を強くする。

しかし、その中に優しさを秘めた笑顔は、歳月を経ようとも変わってはいない、と思わせるには充分だった。ホテルへの道すがら、近況を語り合った。

旅装を解き、マッジョーレ広場の周辺を歩きながら語った。最初は久しぶりの再会に、彼が自らの近況を水がほとばしるように語ってくれた。

タイでのいまの商社マンとしての仕事内容、インド系商人の多い中東での商談の進め方の難しさと理解を深めるやり方。扱っている商品の内容からして、中東あるいはヨーロッパにも商圏が広がっていること。

さらには本年5月、拡大EUに組みこまれる諸国への輸入関税がEU水準のもとで一層高くなり、一種駆け込み輸出が起きていることなどである。

日本から派遣される商社員として大変重要と思われることも語っていた。仕事がうまく行かない時に、協同してやっている現地の方、商売相手の方に、その非を論っているところを見ることがある。

しかしそれでは日本人と現地の方たちとの問題は解決しないまま、時には悪化し撤退を余儀なくさせられる。やはり取引先相手国民の立場に立った理解をしていく。そうした本質的な解決方向を探らないと、長続きもせずに結局はダメですね、と。

彼は、既にアセアン諸国や、中東や、それに止まらず北欧の地まで働く重要な人になっていた。現地事情の異なる各国をまたにかけ、グローバル経済のなかでは欠かせぬ人材になっていると見たのである。

雪の中の道路、都市を結び真っすぐに伸びる
雪の中の道路、都市を結び真っすぐに伸びる

おさまった雪、高層建築はチェントロ外になる
おさまった雪、
高層建築はチェントロ外になる

〈始めての外国、ブルガリアで学んでから〉

場所を変えてレストランに入った。私がイタリアとの関係で、生産拠点の移転が東ヨーロッパ諸国、特にブルガリアやルーマニアに進展している状況を手短に話した。そうしたことをきっかけに、ブルガリアと終生付き合うことになる彼の青春の日々と、その後を語ってくれた。それは、彼が海外で働くきっかけにもなったところである。

◆◆本当にある時点、時点で1つ選択が違っていると、今の自分は無かったでしょうね。というのは、ほぼ間違いないと思っていた最初の大学受験がダメで、その後に受け、合格した大学が今につながります。

しかも大学の学科はブルガリアと関係することをやる日本では始めてのところだったのです。そこを終え、奨学金を得る形でブルガリアに入ったのです。

入国するだけでも、当時は大変でしたね。20年も前ですから、横浜から船でウラジオストクへ2日、そこでは持ち物の全品検査。そしてハバロフスクへ列車で1日、モスクワへは旧ソ連アエロフロートで1日です。

モスクワからブルガリアの首都ソフィアへ飛行機で行くかと思えば、着いたら列車になっていた。ウクライナ、ルーマニアを経て、数日かかって着きました。結局1週間以上はかかりましたね。

この時はロシア語を主に使っていて、ブルガリア語はまだ充分でなかったですね。着いたら着いたで、正式の書類が現地に着いていないとかで、最初の数ヶ月間は宿を転々とする形になりました。まあとにかくいろいろありましたよ。

この時、都合2年いました。1年経った時ある事がらで、私ともう1人を除いて他の日本人の多くが、帰国をしなければならないことがありました。

この時、もし1年で帰国していたら、中途半端になりいまの自分はなかったでしょうね。幸いもう1年勉強でき、向こうの修士課程を終えることができました。2年目は日本語、ブルガリア語の分かる人が急にいなくなり、いろんな面で忙しくなりました。

また経済地理学専攻では、比較的自由にブルガリアの各県を回ることができて良かったですね。だけどあとで分かったことですが、終始尾行でつけられていたのですよ。今だから、言えますけど。

その後ですか?一旦は帰国しましたが、ブルガリアと日本と関係するある会社に入りました。その後商社を含めて、通算3年はブルガリア現地駐在もしましたね。

妻と知り合ったのもこの時でしたよ。結婚にはそれ程問題は無かったですね。家族の理解の関係では、後先になりますが最初にブルガリアに留学する時がむしろ大変でしたね。その後日本の本社に戻り、9年いて今のタイに出ることになったわけです。

いつまで、タイにいるかですか?会社は組織ですから、一定期間後に交代していくシステムにしていかないとダメだと思います。いまはある事情で継続していますが、交代も遠くないと思います。

本社に戻るのか、他の地域へ行くのかどうか、分かりませんが、これまでの経歴や経験を生かして今後もやっていくことになると思います。◆◆

ボローニャでの語らいは、瞬く間に過ぎていった。これまで人づてから聞いていたことも含めて、ある程度の推測はつくにしても、大学卒業以後の数奇な波乱の人生に、正面から向きあってきた彼の生き様に感じ入った。商社マンとして、共存共栄を目標としたこれからの活躍を祈ることしきりであった。

翌日、土産の購入に同行し、ボローニャ空港に向かった。私は、道すがら語った。あなたがブルガリアへ行かれる時に、一緒にお供しましょう。イタリアからの生産拠点の移転をどのように受け入れているのか知りたいですね。

そしてまた、あなたがタイとともに仕事上エリアにしているベトナムへ、そこでの工業化戦略の現段階を知るために、これも時期をみて行きたいです、と約束していた。

ボローニャ空港は、めずらしく霧で少し乱れていた。互いの元気な活躍を約し、別れを告げた。

ボローニャ2つの塔からマッジョーレ広場方向を望む
ボローニャ2つの塔から
マッジョーレ広場方向を望む

雪のあとが残る交差点風景
雪のあとが残る交差点風景


(注1)アジア・太平洋戦争中、泰緬(タイ・ビルマ)鉄道建設にあたり、日本軍が連合国軍の捕虜、労働者を酷使、多数の死者を招いた。その象徴的な場所である。


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