梅浩先生のボローニャだより
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第1節 イタリアで学ぶ一人の青年

〈ボローニャでの再会〉

下宿にいて携帯電話がなった。「ボローニャ駅に13時25分に着きます」。待ちかねていた電話である。「わかりました。駅の玄関口でお会いしましょう」との会話のあと、私は歩いて10数分のボローニャ駅に向かった。

この日、青年は、エミリア街道を南下した先、アドリア海の重要都市であるアンコナから列車に乗って、大学のあるミラノへの帰途であった。その間ボローニャで、久しぶりに私との再会の時間である。

私は、このボローニャで何人かの日本人と出会った。それは何年か前にイタリアに来られた方々や、それ程以前ではなく最近の方々もいる。後者の1人にこの青年がいる。

出会いは昨年9月である。この時彼はすでにペルージャ外国人大学での1年間の語学修得をすませ、ミラノの大学の合格通知を手にしたばかりの時であった。滞在の準備に余念がなく、ミラノへ向かう直前1ヶ月のイタリア語のブラッシュアップ(磨きをかける)の最中であった。

彼との数回の会話の中で、私は日本を旅立ちこのイタリアの地で価値ある人生へと、自己実現を果たそうとしている青年に大変共感を持った。入学後、最初の半期の授業を終えたあとの再会である。

今回はこの青年の言葉を通じて、現代日本における青年の1つの姿を報告してみたい。

雪の日のイルミネーション、マッジョーレ広場・ネプチューン像の前で
雪の日のイルミネーション、
マッジョーレ広場・ネプチューン像の前で

雪景色、ボローニャ大学付近で
雪景色、ボローニャ大学付近で

〈青年がイタリアで学ぶことになったわけ〉

● 日本でのこと

そうですね、高校の友だちは大学へ行く人が多かったですよ。しかし僕は大学へいく意味があまり見つからなかったです。そのため高校卒業後、はっきりとした目標を持つこともなく、いわゆるフリーターとして2年半を過ごしたのですよ。いろいろ仕事をしましたね。たまたま最後の頃はブランドものの洋服を扱う会社の倉庫の仕事をやっていました。

その会社の中に仕事柄イタリアに精通している方がいました。その方の話を聞きながら、日本とはまた違った国のあることが自分の問題として迫ってきました。自分も外国に行ってみようかなと思い始めていました。

最初はアメリカか、それともイタリアに行ってみよう位に思っていました。その頃アメリカを代表するブッシュ大統領がなんとなく嫌いで、やっぱりイタリアに行ってみようと単純に考えていました。

しかし自力で行くために、それからは1年間必死で金を貯めるために働きました。仕事ですか?新聞配達500部近くとその集金と営業でした。朝というより、夜中の2時くらいから配り始めていました。

この時の1年間で良かったと思ったことは、もちろん留学費用の金を貯めたこと、自分としては結構な金額、数百万円は貯めましたよ。そして目標を決めてやっていけば、いろんなことが出来るということが、大きな自信にもなりましたね。

それだけでなくいま振返ってみると、500部近く配達、集金、営業をする、つまり都会の、川崎市というある範囲の地域を毎日何度となく行き来することは、その街の姿を知り尽くすことになりました。

街の形が分かるだけでなく、集金して新聞拡張をすることは会話を通して家の中が見える、ちょっと大げさに言えば、街の息遣いが見えるようになって行ったんですよ。街のつくりや成り立ちを知る、この経験は後々のことにも関係しますが、非常に良かったと思っています。

● ペルージャの1年間

イタリアに来たのは高校卒業してまるまる4年が終わろうとしていました。最初は小さな街で生活を慣らすために、アレッツォの語学学校に3月後半、2週間行きました。

フィレンチェとペルージャの中間あたりにあります。小さくても綺麗な街で良かったですね。しかも街の表情が見えるといいますか、それがあったから次のステップを踏めた感じです。

その後、4月の最初からペルージャに行きましたね。1年間、ペルージャの外国人大学です。ここでの生活は月曜から金曜日まで語学の勉強と、体づくりのつもりで地元の自転車アマチュアクラブに入りました。

毎土曜、日曜日はペルージャのあるウンブリア州のあちこちを自転車で走っていました。殆んど隈なく走りました。フィレンチェのあるトスカーナ州も相当まわりましたね。

どうして自転車ですかって?フリーターしていた頃に、知り合いがトライアスロンをやっていた人がいて、少しやったことがあるのですよ。だけど都会じゃ自転車なんて出来ないし、あんまりしませんでしたけど。だけどイタリアは自転車競技なんて凄いでしょう。それでやる気になったのですよ。

1年間の割には、ウンブリア州なんか隈なく知り尽くしたことは、やはり非常に良かったと思っています。しかも車などではなく自転車で周ったことは、高低差も含めて地形や街の成り立ちを知ることになったと思っています。

肝心の語学ですか?一応5段階の4まで到達できました。ここまで行けば、語学に関してはイタリアの大学入学条件がそろうことになるのですよ。

ボローニャ・子どもカーニバルの正面席
ボローニャ・子どもカーニバルの正面席

インディペンデンス通りを行進する山車
インディペンデンス通りを行進する山車

● なぜミラノの大学か?

そうですね。これからどうしようかと思ったのは、ペルージャの1年間が終わってからですね。そのころは、これから先勉強しようという気が起きてきていたのです。

しかし日本で受験勉強をやるような柄じゃないし、大体授業料が日本は高いでしょう。そうですね、イタリアの授業料は、親の収入によって違いますけど一番高くても年間30万円はかかるか、かからないか位です。僕のところでも20万円で済みました。

しかも折角イタリア語をここまで勉強してきたので、イタリアの大学で勉強しようという気になって行ったのです。

新聞配達の時に知った街の姿、自転車で知ったウンブリア州やトスカーナ州の街の姿、こういうことに興味がわくということで都市に関する勉強をしようという考えができていったのです。

実は可笑しいですけど、自分にはもう1つそうした経験があるのですよ。やはりフリーターやっていた時、19歳の時ですけど、東京−大阪を歩いて行ったのです。1日50km以上、10日半かけて歩いて行きました。

自分にとっては自己満足のようなものだったかも知れないけど、歩きながらいろいろ考えたのですよ。日本の道路というのはつくづく歩くためにできていない、自動車のためにできているのだということを身にしみて感じました。

また街の違いも実感しましたね。この経験もいまでは街づくりと結びついて1本の線のように繋がっているような感じがします。

もちろんペルージャから遠くなかったから、このボローニャ大学も見に来ましたよ。ここにはダムス(DAMS=美術・音楽・演劇学科)という有名な学科がありますので。しかし受験は都市に関係する学科のあるミラノの大学にしました。正確には「土地利用・都市・環境に関する計画学科」です。

大学受験の手続きは東京のイタリア文化会館で、8月末までに行う必要があるし、4月からの数ヶ月間は日本に帰り、試験科目にあった「数学」と「ヨーロッパ史」の勉強を必死でやりましたね。

この時は「ヨーロッパ史」なんて、関係ありそうな日本語の本を無茶苦茶読みました。どれ位わかったかは別ですけど。その上で、イタリア語でまとめを書くようにしたのです。

● ミラノでの大学生活

試験は9月3日、合格発表は9月18日、合格していた時はやっぱり嬉しかったですね。しばらくイタリアで勉強できるという嬉しさですね。実際に去年の9月末からつい最近の前期試験までやってみての感想ですか?やる事が見つかって良かったというのが、正直言って実感ですね。

前期は、「イタリア憲法、法律」「土地利用計画論」「土地利用計画史」「都市計画演習T」の4科目ですね。科目は少ないですが、月曜から金曜日まで時間はびっしり詰まっていますね。

憲法では地方分権の話も出てきましたね。それからイタリアだけでなく、スペインやフランス、イギリスなどヨーロッパをカバーし、しかも主に産業革命以降の都市の発展をやったのもあり、勉強になりました。これからやることは一杯ですね。

この数ヶ月間は勉強だけで、ほとんど何処にも行ってないですね。3月から後期が始まります。今度は「社会学」「都市分析演習」「都市計画演習U」をやり、これまた大変です。

ミラノの生活ですか?家賃の安いところということで、毎日50分かけて行っています。それでも350ユーロ(約5万円)かかります。部屋の条件は決して良くないですよ。

けど今は別の部屋を探す時間的余裕もないです。学生定期は、距離に関係なく一律17ユーロ(約2300円)ですので、その分は助かっています。

● 今後の見通しは?

今後のことですか?正直言ってもうすぐ25歳になるでしょう。年のことも考えますよ。イタリアの大学は制度がいろいろ変わっている最中でして、私のいまの学科は3年で卒業資格は取れるのですよ。しかし学士号は取れません。そのためにはさらに2年が必要です。

これはいずれも最低年数でして、実際にはそれぞれ数年の上積みが必要だと思います。もし修士課程へいくならその後ということになります。だから実際のところはもう少しやってみないと何とも言えないところですね。

しかし、この学科を選んで良かったと思っています。社会の仕組みをいろんな角度から勉強できるからです。さっき言った年のことと矛盾するかも知れませんが、もう1年位勉強してヨーロッパの都市や社会のことが分かってきたら、半年くらい休学してヨーロッパ中を隈なく周ってみたいですね。

そうです、川崎の地域を周り、東京−大阪を歩いて行き、イタリア・ウンブリア州を周ったように、今度はヨーロッパを体で実感しながら周ってみたいと思っています。

小さな子どもも山車に乗って、マッジョーレ広場にて
小さな子どもも山車に乗って、
マッジョーレ広場にて

マッジョーレ広場を埋めつくす人・人
マッジョーレ広場を埋めつくす人・人

〈ヨーロッパで学ぶことの意味〉

ここまで話を聞きながら、人生に挑戦する意味を見出す地点に立っている青年に、ある種眩い感触を持った。確かに高校卒業後の4年間は日本社会で自らの存在価値をどう見つけ出すか、そのステップのための時間であった。

その4年間で、既に日本の大学を卒業した友人も沢山いよう。しかしその年から自分にとって新たなチャレンジをする青年の人生に励ましの言葉を送りたい。

「3年か、その後の2年を入れて5年、もしくは修士課程まで行くのかはまだ分からない。しかし、あなたのように地域理解の範囲を徐々に拡大させ、とうとうヨーロッパまで到達してきた人は決して多くはないはず。すでにウンブリア州の街の姿が体験を通して描けるなんて、日本の大学や大学院を修了している人でもほとんどいない。あなたの存在価値は身をもって都市や地域理解を深めてきたことだと思う。いましばらくは理論的な学習を深めていく、学ぶ中できっとその先が見つかるはずだ」と私は語っていた。

青年はこんな疑問もぶつけてきた。

「ヨーロッパでは私鉄は発達してないのに、何故日本はあのように私鉄が発達したのですか?」私はそのことの答えは直接ふれず、別のことを返事していた。「専門的な学会で、明治・大正期以来私鉄沿線で都市が意図的に形成されてきた歴史を研究した報告も幾つかなされていますよ」

「しかし、日本とヨーロッパとの比較であなたのような疑問を発する人は決して多くはないです。しかし極めて重要な視点だと思います。あなたがこのヨーロッパで学ぶことの意味は、そうした普通には発し得ない疑問を沢山持って、自らが1つずつ解いていくことにあるのだと思います」

 数時間後、見送りに行ったボローニャ駅頭ではきょうも列車のダイヤは軒並み遅れていた。イタリア社会の苦悩を象徴するかのような場面を目にし、ものごとは比較を通じて見えてくると肯いていた。

そうしてしばらくの別れを告げた。


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